【聖書通読第11週6日目】消えない光と、帰り道の父。神は今日も私を迎え直す(レビ24/ルカ15)

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【聖書通読第11週6日目】消えない光と、帰り道の父。神は今日も私を迎え直す(レビ24/ルカ15)

今日の説明文

レビ記24章は、幕屋の灯と供えのパン、そして「神の名」をめぐる出来事を通して、神の臨在と聖さが軽く扱えないことを示します。
ルカ15章は、失われた羊銀貨放蕩息子のたとえで、迷った者を探し、抱きしめて回復させる父なる神の愛を明らかにします。
今日の通読は「神を恐れる心」と「神に帰る安心」を同時に整える一日です

レビ記24章 内容とわかりやすい解説

レビ記24章には大きく三つの場面があります。
第一に、会見の天幕の「ともしび(灯)」が絶えずともるように整える命令です。これは、神の臨在のしるしが消えないように、礼拝の中心を保つことを教えます
信仰は気分に左右されやすいですが、神は民が迷わないように「光が絶えない秩序」を与えられました。
第二に、主の前に供える「供えのパン」が語られます。十二のパンを並べ、安息日に取り替えることが命じられます。
これは、神の前に置かれた民の記念であり、神が契約の民を忘れないことのしるしです。私たちは自分で自分を支えられない時がありますが、主は「わたしがあなたを覚えている」と示してくださいます。
第三に、神の名を冒涜した者の事件が記されます。ここは読むのが重い部分です。しかし聖書は、神の名、神の臨在、神の聖さが「軽く扱えるものではない」ことをはっきり示します。
神は愛なる方ですが、同時に聖なる方です。愛と聖さは反対ではありません。神が聖いからこそ、悪と嘘と暴力を放置せず、正しさを保たれます。
この章は、礼拝が「なごみ」だけで終わらず、「神を恐れる心(敬う心)」を伴うことを教えています。神は近い方ですが、私たちが神を小さく扱うことは望まれません

レビ記24章で神様が望まれていること(薦め)

神様が望まれているのは、まず礼拝の中心にある「光」を消さないことです。忙しさや気分で信仰の灯が弱くなる時、主は「整えて続けなさい」と招かれます。
また、主はご自身の名を大切に扱うことを望まれます。口先の敬虔ではなく、神を神として恐れ、言葉も態度も慎みをもって歩むことです。
そして、神の前で自分は忘れられていない、と受け取ることです。供えのパンのように、主はあなたを覚えておられます。

ルカ15章 内容とわかりやすい解説

ルカ15章は、福音の喜びが最も濃く現れる章の一つです。背景には、罪人や取税人がイエスに近づき、パリサイ人たちがそれを批判する場面があります。そこで主は、三つのたとえを語られます。
第一は「失われた羊」です。羊が一匹いなくなると、羊飼いは九十九匹を残して探しに行きます。見つけたら担いで帰り、友人たちと喜びを分かち合います。ここで主が示すのは、迷った人を「価値がない」と切り捨てず、探しに行く神の心です。
第二は「失われた銀貨」です。女は家中を探し、見つけたら喜びます。これは、失われたものが偶然戻るのではなく、神が丁寧に探して取り戻すことを示します。救いは、本人の運の良さではなく、神の意志と愛によるのです。
第三が「放蕩息子のたとえ」です。息子は父を離れ、破滅し、帰ろうとします。ところが父は遠くから見つけて走り寄り、抱き、口づけし、回復のしるしを与え、宴会を開きます。ここに福音があります。悔い改めは「許される資格を作る努力」ではありません。帰って来た者を、父が受け入れ直してくださるのです。
また兄息子も重要です。兄は外側では正しく見えますが、心は喜べず、憤ります。父は兄にも出て行き、「一緒に喜ぼう」と招きます。神の国は、迷った弟だけでなく、正しさに縛られた兄にも開かれています。

ルカ15章で神様が望まれていること(薦め)

神様が望まれているのは、まず「帰る」ことです。遠慮や絶望で立ち止まらず、主のもとへ向き直ることです。
また神様は、罪が赦されたのに、自分を責め続けて宴会の外に立ち尽くすことを、主は望まれません。
さらに、兄息子のように他者を裁いて心が固くなるよりも、神の喜びに同調し、一緒に回復を喜ぶ者となることを願っておられます

☟ ルカ15章 三位一体なる神様の働き ☟

 

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