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主はわたしの羊飼い。十字架で証明された「乏しいことがない」
弱く、臆病で、遠くがよく見えない羊は、一匹では生きていけないと言われます。迷いやすく、転びやすく、危険に気づくのも遅い。だから羊には、群れと、導く羊飼いが必要です。
詩篇23篇は、その羊の姿に私たちを重ねながら、「主が羊飼いである」ことの安心を、静かに、しかし強く語ります。
詩篇 23篇1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
聞いた話では、世界中の有名な詩人たちが集まり、「世界で一つの詩を選ぶなら何か」と語り合ったとき、多くの有名な詩人が詩篇23篇を選んだと言われています。
真偽を超えて、この詩が多くの人たちの心を掴んできたことは確かです。なぜなら、ここには「人の頑張り」ではなく、「神の確かさ」が歌われているからです。
しかも、この詩の主語はいつも主です。私が自分を作り上げる話ではなく、主が守り、導き、満たしてくださる話です。
そして、
この詩篇23篇の光は、イエス・キリストの十字架と復活によって、さらに深く、確かな福音として響くようになります。
詩篇23篇が心を掴む理由は「主語が主」だからです
詩篇23篇は、「こうしなさい、ああしなさい」と、私を追い立てる詩ではありません。
「主がこうしてくださる」と告げる詩です。
私たちは、信仰生活でもつい「私がちゃんとしなければ」と思ってしまいます。ところがこの詩は、「羊飼いがいる」ことを土台に置きます。羊が完璧だから守られるのではありません。羊飼いが真実だから守られるのです。
この順序が、心を軽くします。
良き羊飼いイエスに、詩篇23篇はつながります
イエス様は言われました。
「わたしは良き羊飼いです。良き羊飼いは羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10章)
詩篇23篇が描く羊飼いは、やさしいだけの人ではありません。守るために、命がけで立つ方です。
そしてイエス様は、「命がけ」ではなく、実際に十字架で命を捨ててくださいました。十字架で、迷子の羊である私たちを取り戻すために。
十字架は、神が遠いという証拠ではありません。神がここまで近づいてくださった証拠です。
復活は、羊飼いの守りが途中で終わらない証拠です。今も生きておられる羊飼いが、今日の私の歩みに伴っておられます。
「私は乏しいことがありません」は白紙の小切手のような安心です
「主はわたしの羊飼い。私は乏しいことがありません。」
この言葉は、現実に不足が見えないという意味ではありません。羊は自分で牧草地を作れないし、水源を掘れません。
しかし羊には、羊飼いがいます。だから「乏しい」は、羊の手持ちで決まらないのです。
これは「白紙の小切手」に似ています。羊は財布の中身を確認して安心するのではありません。「羊飼いがいる」ことに安心します。
主が必要を知っておられ、備えてくださる。だから乏しさは、恐れの根になりません。
緑の牧場と憩いの水は、魂を満たし整えます
「主は私を緑の牧場に伏させ、憩いの水のほとりに伴われます。」
神が与える満たしは、単に物が増えるだけではありません。
魂が息をし、落ち着き、回復し、もう一度立ち上がれるようにされる満たしです。
食べ物や飲み物のように、心を支えるものが主から来る。
だから信仰は、精神論ではなく「生かされる現実」になります。
死の陰の谷でも「共におられる」から恐れません
「たとえ死の陰の谷を歩むことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」
ここは「死ぬか生きるか」のような時を含みます。信仰とは、問題が消えたから平安になるのではありません。
主が共におられるという事実が、恐れの中心を崩すのです。
恐れが消えないままでも、主が共におられるなら、恐れに飲まれずに歩めます。
「あなたのむちとあなたのつえ、それが私の慰めです。」
守りと導きが、今日の現実の中で働くのです。
※むちとつえは、従わせるために使う道具ではありません。むちは、羊飼いが先頭に立って導くときに地面や岩をたたいて音をだして導く道具です。また、つえは、道からそれたりどこかに落ちた羊をやさしく助ける道具です。痛めつけたり従わせるためのおどしの道具ではありません。
敵の前でも食卓が整えられる神の守り
「あなたは私の敵の前で、私のために食事を整えてくださいます。」
敵がいることを、詩篇は否定しません。信仰者にも圧迫があります。誤解も、攻撃も、心の揺れもあります。
しかし主は、敵の前でさえ「食卓」を整えられる。これは、神の守りが“危険をゼロにする”形だけで現れるのではなく、“危険の中で平安と必要を与える”形でも現れるということです。
そして「私の杯はあふれています」。いや、「溢(あふ)れ続けています」。
主の恵みは、一度あふれて終わりではありません。日々の歩みの中で、必要に応じて注がれ続けます。
慈しみと恵みが追ってくる。主が前を行かれます
「まことに、いつくしみと恵みが、私を追ってくるでしょう。」
信仰の歩みは、私が神を追いかけて倒れないように必死になる歩みではありません。
主が前を行き、慈しみと恵みが後ろから追ってくる。四方八方から守られているという告白です。
だから最後に言えます。
「私はいつまでも主の家に住まいます。」
これは、気分の宣言ではなく、羊飼いの確かさに基づく希望です。
私は愚かな羊。だからこそ詩篇23篇を声に出して読む
正直に言えば、私は愚かな羊です。こんなに守られているのに、不信仰になって駄々をこねてしまうことがあります。
だから私は、詩篇23篇を声に出して読みます。何度も何度も。
そして「私」のところに自分の名前「KIYOSHI」を入れます。
「主」のところに「イエス様」を入れます。
すると、遠い詩ではなく、私自身の今日の告白になります。
仲谷清志兄が天に召される前の日の夜中、二人でこの詩篇23篇を読みました。
読み終えたとき、二人ともイエス様への感謝で涙が流れていました。
苦しみや死の影が近い時ほど、この詩は「現実逃避」ではなく「いのちの確かさ」を語ります。
良き羊飼いは、羊を見捨てません。イエス様は、命を捨ててまで守ってくださった方だからです。
クリスチャン向け:深く考えさせる問い(問いかけ)
あなたは今、「乏しいことがない」を、状況の増減で判断していないでしょうか。
羊飼いの確かさではなく、手元の安心材料で心の温度が上下していないでしょうか。
また、死の陰の谷や敵の前で、あなたは「主は共におられる」を頭や知識では知りながら、心は一人で耐えようとしていないでしょうか。
今日、あなたが握りしめている不安や自己防衛を、羊飼いである主に渡し、「私の羊飼いはイエス様です」「私は乏しいことがありません」と言い直す必要はありませんか。
クリスチャンでない方向け:深く考えさせる問い(問いかけ)
あなたが「本当に守ってくれると思っているもの」を失ったとき、あなたの心を支える土台は何でしょうか。お金、健康、人の評価、計画、努力……それらは大切ですが、死の陰の谷の前では、どれも完全な支えにはなりません。
もし「良き羊飼い」がいるなら、そしてその方があなたのために命を捨てたなら、あなたはその招きをどう受け止めますか。
あなたは今、誰の声に導かれて歩いていますか。そして、迷ったときに「戻れる場所」を持っていますか。

