
この記事の目次
地獄は本当にあるの?金持ちとラザロが教える「裁き」と「救い」
地獄を語って脅しを与えてイエスキリストを信じさせようとしているかのように思っている方がおられるかもしれません。
たしかに神様の愛だけを語って欲しいと多くの人は望んでいるでしょう。
でも、あなたが癌ですぐに治療しなければならないとき、癌であることを宣告するとショックをうけるだろうからと、変なやさしさでその宣告をしないことが愛でしょうか?本当の思いやりでしょうか?
たしかに、もう手遅れであったとしたら宣告しない選択肢もあるでしょう。
しかし、その癌に対する完全な特効薬があったり手術などの癌を完全に治す治療法があったとしたらどうでしょう。
癌であることを宣告しないほうが愛のない行動ではないでしょうか。
完全に治る方法があるなら危険な恐ろしい状態を警告するのが本当の愛です。
クリスチャンであるわたしが、恐ろしい地獄の警告をすることは、地獄の存在と地獄で裁かれてしかたがない罪びとであるという現実があるからです。しかし愛ある警告をするのは、完全な救いがあるからです。
あなたはこのままでは行先は恐ろしい地獄です!!
しかし、その裁きからの素晴らしい完全な救いがあるのです。
ですから、そのすばらしい救い、福音に耳を傾けてください。
H2-1 ルカ16章「金持ちとラザロ」:金持ちが裁かれた理由は“お金”ではない
H3-1-1 あらすじを一気に整理:死後に立場が逆転する物語
ルカの福音書16章には、「金持ちとラザロ」の話が出てきます。
金持ちは毎日ぜいたくに暮らし、立派な服を着て、食事も楽しみ、困ることがありませんでした。
一方、ラザロは病気で苦しみ、金持ちの門のところで助けを求めるような状態でした。
しかし二人はやがて死にます。すると、死後の世界で立場が逆転します。ラザロは慰めを受け、金持ちは苦しみの場所にいました。
ここで大切なのは、聖書が「死んだら終わり」とは語っていないことです。死後に“続き”があると宣言しています。
そこでいま現在の私たちの生き方が問われる、という現実が示されています。
生き方というのは、善い行いをしたかどうかではなく、神様に対する態度であり、神様に対する罪の解決を得ているかどうかということです。
H3-1-2 金持ちの本当の問題:神を神とせず、自分中心で生きた
この話で、金持ちが裁かれた理由は「金持ちだったから」ではありません。
お金自体が悪いのではなく、問題は心の中心に何が置かれていたかです。
金持ちは、創造主である神様を神様として認めず、神に心を向けず、自分が自分の人生の神になろうとしました。
神様を無視し、逆らい、刃向かい、「自分は間違っている」ということを認めませんでした。
さらに彼は、神を愛する代わりに、お金を愛し、「お金が自分を幸せにしてくれる」と信じました。
しかし、そこに本当の平安はなく、満足もありませんでした。
むしろ心の深いところに空しさが残り、その空しさをかくすために、ぜいたくや物や快楽で気持ちを満たそうとしていたのです。
H3-1-3 満たされない心と“ぜいたくの麻酔”:空しさを隠す生き方
たとえるなら、心の中に痛みがあるのに、薬で痛みを一時的に消して「治った」と思い込むようなものです。
痛み止めは必要なときがありますが、原因を治さないまま「痛みがない=大丈夫」としてしまうと、もっと大きな問題になります。
金持ちは、心の空しさを“ぜいたくの麻酔”で隠しながら、神様なしで生きる道を選び続けたのです。
H2-2 なぜ人は裁かれなければならないのか:罪びとである根拠
H3-2-1 罪の中心は「神を無視する」こと:創造主への背き
「罪」と聞くと、多くの人は「悪いことをした」「犯罪をした」というイメージを持ちます。
しかし聖書で言う罪の中心は、もっと根っこにあります。
それは、創造主である神様を神様として扱わないこと、神を無視して生きることです。
神様から命をいただき、息をし、今日も生かされているのに、心の中心に神を置かず、自分を中心に置く。
「私の人生は私のもの」「私は私のやり方でいく」
こうして神を退けることが、罪の出発点になります。
罪とは、神の愛と光から離れて、自分中心の王国を作ろうとする心の姿勢なのです。
H3-2-2 良心があるのに守れない:心の中の矛盾が示すもの
ここであなたにぜひ考えてほしいことがあります。
私たちは「正しいこと」をある程度知っています。
人を傷つけたら良くない。うそは良くない。ずるいのは良くない。いじめは良くない。
多くの人がそれを知っています。
でも、知っているのに、守れないことがある。
「やめたほうがいい」と分かっていてもやってしまう。
「言いすぎた」と分かっていても止められない。
「優しくしたい」と思っていても、心が冷たくなる。
この矛盾が何を示すかというと、私たちの内側が“ずれている”ということです。
聖書が言う「罪」は、外側の行動だけでなく、心の中心がずれている状態を指します。
だからこそ、人は神の前で「私は大丈夫です」と言い切れないのです。
H3-2-3 ヘブル9:27の重さ:「一度死ぬこと」と「死後の裁き」
聖書は、私たちの人生が「この世だけで完結する」とは語りません。
ヘブル人への手紙9章27節はこう言います。
「人間には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている。」
これは恐がらせるための言葉ではありません。
むしろ、「神が正しい」という宣言です。
神が本当に正しい方なら、悪を「まあいいか」で終わらせることはできません。
裁きがあるということは、涙が放置されないということです。
不正が永遠に勝ち続けることはないということです。
神の裁きは、神の義(正しさ)から出てくる必然なのです。
H2-3 地獄は本当にあるのか:信じる根拠を整理する
H3-3-1 イエスキリストが地獄を語った意味:脅しではなく警告という愛
地獄の話は、とても重いテーマです。
しかし、地獄を語ったのは主にイエス・キリストご自身です。
ルカ16章の話も、その代表的な箇所の一つです。
もしイエス・キリストが地獄の話を避けていたら、ある意味で人気者にはなれたかもしれません。
でもイエス・キリストは、人々を本当に救うために、あえて警告を語りました。
危険な崖の前で「危ない!」と叫ぶのは、嫌がらせではなく愛です。
地獄の警告も同じです。
「そんな場所はないよ」と言って嘘で安心させるより、「ある」と言って救いの道を示すほうが、本当の愛なのです。
H3-3-2 最終的な正義が必要:涙が放置されない世界観
この世界で、正されない悪を見たことがある人は多いでしょう。
理不尽な言葉、暴力、裏切り、いじめ、虐待。
被害者が泣き寝入りして終わってしまうこともあります。
もし「死んだら終わり」なら、その涙はどうなるのでしょうか。
でも、神が生きておられ、神が正しい方なら、最後に必ず正される日が来ます。
裁きと地獄の話は、被害者の痛みを軽んじないためにも必要です。
神は、正義を捨てる神ではありません。
だからこそ、裁きの現実が語られるのです。
H3-3-3 地獄は「神が意地悪」ではなく「神から離れ続けた結末」
地獄は「神が意地悪で人を落とす場所」として理解されがちです。
しかし聖書の流れから見ると、地獄はむしろ「神から離れ続けた結末」として理解できます。
神は光であり、いのちであり、愛の源です。
その神から離れるとは、光から離れること、いのちから離れること、愛の源から離れることです。
神は人間を機械のように強制しません。
自由を与え、愛として招きます。
しかし、その招きを拒み続け、「神はいらない」と言い続けるなら、その結末は神のいない状態に固定されていきます。
地獄は、その恐ろしい固定の現実として語られるのです。
地獄の恐ろしさは、永遠の火の燃える池で永遠に苦しむ恐ろしさです。しかし、もっと恐ろしいことは、地獄には神様がおられないということです。地獄には神様の愛がひとかけらも存在しないという現実です。なんと恐ろしいことでしょうか?
H2-4 愛と正義の“ギャップ”を埋めた十字架:神の真実な愛の証拠
H3-4-1 神は愛なのになぜ裁く?:正しい神が罪を見過ごせない理由
ここで多くの人が疑問に思います。
「神は愛なのに、なぜ裁くのですか?」と。
でも、もし義なる正しい神様が罪を裁かないなら、神は正しい方ではなくなくなってしまいます。
神が愛であるから、神は私たちを救いたい。
でも神が義なる方であるなら、罪は裁かれなければならない。
この「愛」と「正義」の間に、私たちにはどうしても越えられないギャップが生まれます。
では神はどうされたのでしょうか。
H3-4-2 十字架=正義を曲げずに、罪人を救う神の方法(身代わり)
神は、罪を「なかったこと」にしませんでした。
しかし同時に、罪人を見捨てませんでした。
そのために、神は驚くべき方法を選ばれました。
それが十字架です。
イエス・キリストが私たちの罪の刑罰の身代わりとなり、十字架で罪の罰を引き受けて尊きいのちを捨ててくださったのです。
たとえば、友だちがどうしても払えない借金を抱えていたとします。
あなたが「払ってあげる」と言って肩代わりしたら、借金は消えます。
でもそれは「借金を無視した」のではなく、「借金の代価を支払った」から消えるのです。
十字架は、それよりもはるかに深い現実です。
罪の代価を、神ご自身が負ってくださったのです。
だから神は、正義を曲げずに、私たちを赦すことができる。
これが十字架の力です。
そして聖書は、その十字架が「見返りを求めない愛」であることをはっきり示します。
「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」
この愛は、「いい子になったら愛してあげる」という取引ではありません。
「背を向けているあなたを、今ここで救う」という、真実な愛です。
H3-4-3 復活=十字架が本物だという神の承認:死を破った希望
もし十字架が悲劇で終わっていたら、それは美談で終わってしまいます。
しかしイエスは三日目に復活されました。
復活は、「十字架の支払いが完了した」ことのしるしです。
そして「死が終わりではない」ことのしるしです。
死が最強の壁のように見えても、復活はこう宣言します。
「神の救いは現実だ。罪も死も、キリストにあって破られる。」
だからこそ、地獄という恐ろしい結末から救い出す道が、ただの理想ではなく、現実として開かれました。
H2-5 今日の結論:今ここで神に心を向ける招き
H3-5-1 “戻れなくなる前に”:今の選びが未来をつくる
ルカ16章の金持ちは、「生きている間」に神に心を向ける機会がありました。
でも、彼はそれを先延ばしにし、神なしで生きる道を選び続けました。
そして死後、「戻りたい」と思っても戻れない現実に直面しました。
だから聖書は、今ここで神に心を向けるように招きます。
怖がらせるためではありません。
救うためです。
H3-5-2 短い祈り・決心の言葉(中高生向け)
もし今日、「神を無視して生きてきた」「自分中心だった」と気づき罪を悔い改め、短く祈ってみてください。
神様。
私はあなたを無視して、自分中心で生きてきました。
このことがどれだけ神様を悲しませた罪であるか知りました。
このことを心から悔い改め、
イエス・キリストが私のこの罪のために十字架にかかり、復活されたことを信じます。
アーメン。
