
「主に従う道」は重荷ではない!ルカ9章が語る福音と本当の自由!!
クリスチャンとして歩んでいると、ときどき心の中にこんな思いがよぎることがあります。
「主に従うとは、自由を失うことなのだろうか」
「聖書の教えは厳しすぎるのではないか」
「自分を捨てるとは、自分らしさをなくすことなのか」
とくに、ルカ9章にある主イエスのこの御言葉は、重く感じられることがあります。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしについて来なさい。」(ルカ9:23)
この言葉だけを聞くと、まるでクリスチャンの人生は苦しく、窮屈で、何も楽しみがないように思えるかもしれません。しかし、主イエスがここで語っておられることの本当の意味は、まったく逆です。
主は私たちを縛るために招いておられるのではありません。
主は私たちを、罪と自己中心の不自由から解き放ち、
本当の自由へ導くために招いておられるのです。
ルカ9章は、主イエスが十字架への道を見つめながら、弟子たちにも「いのちに至る道」を示された章です。そしてそこには、神の境界線が私たちを苦しめるためではなく、守るためにあること、
また主に従うことが真の自由といのちにつながることが、深く示されています。
この記事の目次
ルカ9章は、主イエスが十字架への道を示された章
救い主は、ご自分の進む道を知っておられた
ルカ9章の大きな流れを見ると、主イエスはただ奇跡を行うお方としてではなく、十字架へ向かわれる救い主として描かれています。
ペテロが「あなたは神のキリストです」と告白したあと、
主はご自分が苦しみを受け、捨てられ、殺され、そして三日目によみがえることを弟子たちにお語りになりました(ルカ9:20-22)。
ここはとても大切です。
イエス様は、成り行きで十字架に向かわれたのではありません。人々の都合に振り回されて、仕方なく苦しまれたのでもありません。主は、私たちを罪から救うために、はっきりとその道を見据え、自ら進んで十字架への道を歩まれたのです。
つまり、
弟子たちへの「ついて来なさい」という招きは、遠くから命令する冷たい声ではありません。
まず主ご自身が愛をもって進んでくださった道へ、「あなたも来なさい」と招いてくださる、恵みに満ちた呼びかけなのです。
十字架は敗北ではなく、愛と救いの道
人の目には、十字架は敗北に見えます。
苦しみ、辱め、拒絶、弱さ。世の価値観で見れば、十字架は負けです。
けれども、神の目から見るなら、十字架は敗北ではありません。十字架は、神の愛が最もはっきりと現された場所です。罪のない神の御子が、罪ある私たちの身代わりとなって死んでくださいました。私たちが受けるべき裁きを、主が代わりに受けてくださったのです。
ですから、主が示される道は、狭く見えても、実は滅びの道ではなく、いのちの道です。
たとえば、医師が傷口を消毒するとき、しみて痛むことがあります。しかしその痛みは、患者を苦しめるためではなく、癒すためです。
同じように、
主の御言葉は時に私たちの自己中心を痛ませますが、
それは私たちを壊すためではなく、救い、癒し、いのちへ導くためなのです。
「自分を捨てる」とは、自分を消すことではない
自己否定とは、自分に価値がないと思うことではない
「自分を捨てなさい」という主の言葉は、とても誤解されやすい言葉です。
ある人はこれを、「自分なんて価値がないと思え」「自分の気持ちを全部押し殺せ」「自分らしさを消してしまえ」という意味のように受け取ってしまいます。
しかし、主イエスはそのような意味で語っておられるのではありません。
主が言われる「自分を捨てる」とは、自分そのものを消してしまうことではなく、自分を人生の王座から降ろすことです。
今まで自分の思い、自分の願い、自分の欲、自分の誇りが人生の中心にあったなら、その中心を主にお渡しして、
「主よ、あなたが私の主です」と認めて歩むことです。
ですから、これは人格否定ではありません。
これは、人生の中心を主に明け渡すことです。
言い換えれば、「自分を捨てる」とは、自分を嫌いになることではなく、自分を神にするのをやめることです。
自分が主人である生き方を手放し、主を主人として歩み始めることです。
自分中心は自由に見えて、実はいちばん不自由
ここで私たちは、ひとつの大きな勘違いに気づかされます。
それは、「自分の好きなように生きることが自由だ」という考えです。
確かに一見すると、自分の思うままに生きることは自由に見えます。
誰にも指図されず、好きなことをして、嫌なことを避けて、自分の気分のままに生きる。それが自由だと思われがちです。
しかし、本当にそうでしょうか。
実際には、自分中心に生きる人ほど、欲望に振り回され、人の評価に縛られ、怒りや不安に支配され、比較に苦しみ、傷つけられることを恐れて生きています。
自由に見えて、実はさまざまなものの奴隷になっているのです。
たとえば、船は港につながれたロープを切らなければ大海原へ出られません。岸につながれたままなら安全そうに見えますが、本来の目的を果たせません。
同じように、自己中心に縛られたままでは、人は本当の意味で生きることができないのです。
主は、「自分を捨てなさい」と言われることで、私たちから大切なものを奪おうとしておられるのではありません。
むしろ、
私たちを縛っているものから解放し、神に造られた本来の自分として生かそうとしておられるのです。
「日々自分の十字架を負う」とは何か
毎日、主の方向を選び取る歩み
主は「自分の十字架を負って」と言われただけではなく、「日々自分の十字架を負って」と言われました。
これは、ある一日だけ特別な決心をすることではありません。毎日の生活の中で、少しずつ、繰り返し、主の方向を選び取ることです。
腹が立ったとき、自分の怒りを正当化するのではなく、主の前に静まること。
人に認められたくて無理をするとき、主のまなざしを第一にすること。
楽な道へ流れたくなるとき、主が喜ばれる誠実を選ぶこと。
赦したくない思いが湧いたとき、主にあって赦しへ導かれること。
これらは、どれも小さなことのように見えます。しかし、こういう日々の歩みの中で、
「私は自分の肉の思いではなく、主の方向へ歩みたい」と選ぶことが、十字架を負うということなのです。
それは苦行ではなく、新しいいのちへの道
ここで大切なのは、「十字架を負う」という言葉を、ただの苦行や我慢大会のように受け取らないことです。
主は、「苦しいことを増やせば、それだけ立派な信仰者だ」とは言っておられません。
主が求めておられるのは、苦しみそのものではなく、主に従う心です。
そしてその道は、古い自分の支配から離れて、新しいいのちに生きる道です。
たとえば、狭い山道をガイドと一緒に歩くことを考えてみてください。崖のある場所では、勝手に道を外れて「自由に歩きたい」と言う方が危険です。ガイドの示す道を歩くことは不自由ではなく、いのちを守る知恵です。
同じように、主と共に歩む道は、一見すると制限があるように見えても、実はもっとも安全で、もっとも祝福に満ちた道なのです。
神の境界線は、私たちを守るためにある
神の「してはならない」は愛の声
聖書には、してはならないこと、避けるべきこと、慎むべきことが書かれています。それを読むと、人によっては「神様は厳しすぎる」と感じるかもしれません。
けれども、神の境界線は、私たちの喜びを奪うためのものではありません。私たちを守るためのものです。
たとえば、小さな子どもに向かって親が「道路に飛び出してはいけない」と言うとき、それは自由を奪うためではありません。
命を守るためです。火に手を近づけてはいけない、危ないものに触れてはいけない、そう言うのも、愛しているからです。
同じように、神が「その道に行ってはいけない」と言われるのは、罪が人を傷つけ、壊し、最後には死へ導くことをご存じだからです。
線路の上を走る列車のように
列車は線路の上を走ります。
「どうして決められた線の上しか走れないのか。不自由だ」と思う人がいるかもしれません。
しかし列車が線路を離れたら、それは自由になるのではなく、脱線して動けなくなります。
人も同じです。神のご計画と導きの中にあるときこそ、本当の意味で生きることができます。
神の境界線は、私たちを閉じ込める柵ではなく、いのちへ向かわせる愛のレールなのです。
ルカ9章で主が弟子たちに示された道も、この意味で理解しなければなりません。
主は弟子たちを苦しめたいのではなく、いのちへ導きたいのです。
福音があるから、私たちは従うことができる
先に主が私たちのために十字架を負われた
ここで最も大切なのは、福音です。

私たちは、立派に従えたから救われるのではありません。まず、主イエスが私たちのために十字架を負ってくださったのです。
主は、罪ある私たちを愛して、ご自分をささげてくださいました。だから私たちは、見捨てられる不安の中で従うのではありません。
すでに愛され、赦され、受け入れられている者として従うのです。
ここが福音のすばらしいところです。
「従わなければ愛されない」のではありません。
「すでに愛されているから、主に従いたい」
これがクリスチャンの歩みです。
主に従う道の先には、本当の自由がある
主イエスはこう言われました。
「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」(ルカ9:24)
これは不思議な言葉です。しかし、本当にその通りです。
自分を守ろう、自分を握りしめよう、自分の思い通りに生きようとすればするほど、人はかえって心を失っていきます。
けれども、主に自分を明け渡す人は、そこで初めて本当の自分を見いだします。
主に従うことは、自分をなくすことではありません。神に造られた本来の自分として生き始めることです。
おわりに――主の招きは束縛ではなく恵みである
ルカ9章にある「自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしについて来なさい」という主の言葉は、厳しいようでいて、実は深い恵みに満ちた招きです。
それは、自分を消しなさいという意味ではありません。
人生の中心を主に明け渡し、主の方向へ歩みなさいという招きです。
神の境界線は、私たちを縛る鎖ではありません。
私たちを守るための愛の境界線です。
そして、主に従う道は、喜びを失う道ではありません。
罪と自己中心の奴隷状態から解放され、いのちと平安と本当の自由へ導かれる道です。
十字架の主に従う道は、重荷ではありません。
その道こそ、主の愛の中を歩む、恵みの道なのです。

