【伝道メッセージ】「ただ信じるだけで救われるなんて、本当ですか?」 ―罪びとのために来られたイエス・キリスト―

未信者向け伝道メッセージ

イトル「ただ信じるだけで救われるなんて、本当ですか?」―罪びとのために来られたイエス・キリスト―


導入

皆さんは、こんなふうに思ったことはないでしょうか。

「神様を信じるというのは、何か立派な人がすることではないか」
「自分はそこまで悪い人間ではない」
「罪人だと言われても、少し大げさではないか」
「信じるだけで救われるなんて、そんなに簡単な話があるのか」

そう思うのは自然なことです。
むしろ、多くの人がそう考えると思います。

世の中では、努力が大切だと言われます。
頑張った人が認められ、真面目に生きた人が評価されます。
ですから、救いについても、

「何か良いことをたくさんした人が救われるのではないか」
「立派な人間になったら神様に受け入れられるのではないか」

と思いやすいのです。

けれども聖書は、私たちの予想とはまったく違うことを語ります。
聖書が語る救いは良い人へのごほうびではなく、罪びとへの恵みです。

今日は、このことをわかりやすく見ていきたいと思います。


展開1 そもそも「罪」とは何でしょうか

「罪」と聞くと、多くの人は犯罪のようなものを思い浮かべます。
人を傷つけた、盗んだ、だました、そういうことです。

もちろんそれらも罪です。
しかし、聖書が語る罪は、それだけではありません。
もっと深いところにあります。

聖書は、人間の罪の根本を、神様を神様としないことだと教えています。

神様は私たちを造り、命を与え、生かしておられるお方です。
本当なら私たちは、その神様に感謝し、神様を中心として生きるべき存在です。
ところが私たちは、

「自分の人生は自分のものだ」
「自分が主人だ」
「神様がいなくても大丈夫だ」

と考えて生きています。

これは、たとえば家を建ててくれた人がいて、無償で使わせてくれているのに、その人を完全に無視して、その家を自分のもののように使っているようなものです。
あるいは、命を与えてくれた方がいるのに、その方に背を向けて、「私は私の力で生きている」と言っているようなものです。

聖書はこう語ります。

すべての人は罪を犯したので、神の栄光を受けることができない。」
(ローマ3:23)

ここで大事なのは、「すべての人」と書かれていることです。
一部の特別に悪い人のことではありません。
外から見て立派に見える人も、親切な人も、真面目な人も、みな神様の前では罪人だというのです。


展開2 「私はそこまで悪くない」と思う(思いたい・・・)私たち

ここで、多くの人の心にこういう声が出てきます。

「でも、自分はそこまで悪い人間じゃない」
「犯罪を犯したわけでもない」
「人に迷惑ばかりかけてきたわけでもない」

確かに、他の人と比べるなら、そう思えるかもしれません。
しかし聖書は、「人と比べてどうか」ではなく、「神様の前でどうか」を問います。

たとえば、テストで30点の人と50点の人がいたとします。
50点の人は30点の人よりは良いかもしれません。
でも、合格点がもし100点なら、30点も50点も99点も足らないということでは同じです。

人と比べると、自分はまだましだと思えます。
しかし、神様のきよさ、正しさ、愛の完全さの前に立つと、だれ一人として「私は十分です」とは言えないのです。

聖書は、人間の内側についてこう言います。

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」
(エレミヤ17:9)

外側をきれいに見せることはできます。
笑顔を作ることもできます。
丁寧な言葉を使うこともできます。
けれども内側には、

高ぶり
妬み
怒り
自己中心
赦せない思い
神様を必要ないとする心(自分が中心で、自分を神としているようなもの・・・)

があります。

神様は、その心をご覧になります。


展開3 しかし神様は、罪びとを見捨てなかった

もし聖書が、「あなたは罪人です」で終わるなら、そして罪には刑罰がともないます。という警告だけで終わるなら・・・

何の希望もありません。
けれども、聖書はそこで終わりません。

むしろ、ここからが福音です。

「福音」とは、良い知らせという意味です。
では、その良い知らせとは何でしょうか。

それは、罪ある私たちのために、イエス・キリストが来てくださったということです。

それだけではありません。

イエス様は、立派な人を表彰するために来られたのではありません。
罪びとを救うために来られました

イエス様はこう言われました。

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」
(マルコ2:17)

病院は、健康な人が「記念に行く場所」ではありません。
助けが必要な人が行くところです。
同じように、イエス様は「私は大丈夫です」という人ではなく、「私は助けが必要です」という人のために来られたのです。


展開4 十字架とは、私たちの身代わり

聖書の中心は、イエス・キリストの十字架です。

聖書はこう語ります。

「キリストは、私たちの罪のために死なれた。」
(Ⅰコリント15:3)

イエス様は十字架で死なれました。
しかし、それはただ悲しい死ではありません。
私たちの罪のための死でした。

本来、神様に逆らった責任は、私たち自身が負うべきものでした。
けれども、

罪のないイエス様が、その裁きを私たちの代わりに受けてくださったのです。

たとえば、あなたが払えない大きな借金を負っていたとします。
自分では返せません。
逃げることもできません。
そこへ、何の責任もない方が来て、「その借金は私が全部払います」と言って、本当に全部払ってくださったらどうでしょうか。

それが十字架です。

私たちの罪の負債を、イエス様が全部引き受けてくださいました。

いえ、罪の裁きの身代わりは、罪なき方にしかできませんでした。

罪なき神の御子であるイエスキリストにしか『わたしの罪の刑罰を身代わりに受けることはできなかったのです


展開5 復活とは?救いが本物である証拠

けれども、イエス様は死んだままで終わりませんでした。
聖書はこう言います。

「キリストは…葬られ、三日目によみがえられた。」
(Ⅰコリント15:4)

復活はイエス様が本当に救い主であることの証明です。
罪の代価が完全に支払われたことの証明です。
死に勝利されたことの証明です。

ですから、キリスト教は「昔こんな立派な先生がいました」という話ではありません。

「イエスキリストが昔、あなたを愛して身代わりに死んで下さった素晴らしい方ですよ」という過去の感動する話しではないのです。
今も生きておられるイエス様の話です。
今も救うことのできる主の話です。

なぜなら、イエスキリストは死を打ち滅ぼして復活してくださり、今も生きておられる救い主ですよという実話です。


展開6 「ただ信じるだけ」とはどういうことですか?

ここで多くの人がつまずきます。

「ただ信じるだけでいいなんて、簡単すぎる。むしが良すぎる。」
「もっと努力や修行が必要なのではないか?」と思います。

でも考えてみてください。
もし救いに私たちの努力が必要なら、弱い人は救われません。
失敗した人は救われません。
最後まで頑張れた人だけが救われることになります。

しかし聖書はこう語ります。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。…行いによるのではありません。」
(エペソ2:8-9)

信じるとは、ただ頭で「そうかもしれない」と思うことではありません。
自分では自分の罪をどうすることもできない。どんなに頑張っても、努力しても自分で自分を救えない、と認めて、イエス様に身をゆだねることです。

椅子を見て「たぶん座れそうだ」と思うだけではなく、実際に体を預けることです。
救いも同じです。
自分の行いではなく、イエス様の十字架と復活に身を預けるのです。


結論

では、だれが救われるのでしょうか。

聖書ははっきり言います。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
(使徒16:31)

救いの条件は、「もっと立派になってから」ではありません。
「もう少しきれいな人間になってから」でもありません。
主イエスを信じなさい、それです。

病人は、治ってから病院に行くのではありません。
病気だから行くのです。
罪びとも同じです。
きれいになってからイエス様のところへ行くのではなく、そのままで行くのです。


招き

今、あなたはどうでしょうか。

「自分は神様を無視して生きてきたかもしれない」
「たしかに自分中心だった」
「心の中には暗いものがある」
「自分では自分を救えない」

そのことに少しでも気づかされているなら、それは神様の招きかもしれません。

イエス様はこう言われました。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
(マタイ11:28)

疲れている人。
重荷を負っている人。
それでいいのです。

今、イエス様を信じてください。
「私の罪のために十字架にかかり、死んで、葬られ、三日目によみがえってくださった救い主です」と受け入れてください。

祈りの言葉は完璧でなくてかまいません。
たとえば、このように祈ることができます。

「神様。私はあなたを無視して、自分中心に生きてきました。私は罪ある者です。けれども、イエス・キリストが私の罪のために十字架で死に、三日目によみがえってくださったことを信じます。私を赦し、救ってください。これから私の人生を導いてください。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。」

救うのは祈りの上手さではありません。
イエス・キリストご自身です。

どうか今日、この救いを受け取ってください。

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