
この記事の目次
聖なる神の前に立つ。気軽さではなく、畏(おそ)れと希望をもって
レビ記10章/ルカ1章
今日の通読は、レビ記10章とルカ1章です。
一つは厳しく身が引き締まる章であり、もう一つは静かな希望が芽生える章です。
けれど、この二つを一緒に読むと、「神はどのようなお方なのか」がとてもはっきり見えてきます。
神は聖なる方です。
しかし同時に、恵み深く、救いの約束を確かに進めてくださる方でもあります。
この二つを切り離さずに受け取ることが、今日の大切な学びです。
レビ記10章では、
アロンの子ナダブとアビフが「異なった火」を主の前にささげたため、主の前から出た火によって打たれます。
この場面は、読むだけでも緊張します。
なぜそれほど厳しいのか、と感じるかもしれません。
けれど、この章が教えているのは、神の聖さを人が軽く扱ってはならないということです。
礼拝は、自分の思いつきや気分で整えるものではありません。
神の前に出るとは、聖なる神の前に出ることです。
そこには恐れと敬いが必要です。
ナダブとアビフは、祭司として神に仕える立場にありました。
だからこそ、神の定めを軽く扱うことの重さが、はっきり示されたのです。
神は「わたしに近づく者によって、わたしは聖なる者とされる」と言われます。
これは、神が冷たいという意味ではありません。
むしろ、神は本当に神であり、私たちが勝手に小さくしてよい存在ではないということです。
神を自分の都合に合わせるなら、それは礼拝ではなくなってしまいます。
この章の後半では、祭司が聖なるものと俗なるもの、きよいものと汚れたものを区別する務めを持つことが語られます。
神の民が、何が神にふさわしく、何がそうでないかを学ぶためです。
つまり、礼拝とは一時的な行事ではなく、神を神として敬いながら生きる全体の歩みを整えるものなのです。
この緊張感を胸に入れたままルカ1章に進むと、神の別の面が見えてきます。
ルカ1章
ここでは、まず祭司ザカリヤのもとに御使いガブリエルが現れ、バプテスマのヨハネの誕生が告げられます。
長く子どもが与えられず、年を重ねた夫婦に対して、神は「あなたの祈りは聞かれた」と語られます。
人にはもう遅いと思える時でも、神の約束は遅れてはいません。
神は、定められた時に救いの計画を進めておられます。
さらにガブリエルはマリアのもとにも遣わされます。
マリアは驚き、戸惑います。
しかし御使いは「恐れることはありません」と語り、彼女が救い主を宿すことを告げます。
ここで大切なのは、神の救いの始まりが、人の強さや偉さから始まらなかったということです。
ザカリヤもマリアも、圧倒されるしかありませんでした。
けれど神は、そのような弱い人を用いて、ご自分の約束を進められます。
ルカ1章の最後でマリアは賛美します。
神は高ぶる者を退け、低い者を高くし、飢えた者を良いもので満たし、へりくだる者を顧みてくださる方だと歌います。
ここに、神の聖さと恵みが一つになって現れています。
神は聖なる方であり、軽く扱うことはできません。
しかし、その聖なる神は、へりくだる者、助けを必要とする者に近づいてくださるのです。
レビ記10章とルカ1章を一緒に読むと、神に対して「軽くない心」と「閉じない心」の両方が必要だと分かります。
軽くない心とは、神を神として敬うことです。
閉じない心とは、その神の恵みの招きを信じて受け取ることです。
神を恐れることと、神に望みを持つことは、反対ではありません。
むしろ、両方がそろってこそ、本当の礼拝になります。
今日、神様が私たちに望んでおられるのは、
礼拝を慣れで流さないことです。
また、自分の「罪深さ」や「愚かさ」を理由に、神の約束をあきらめないことです。
あなたは、神を近すぎる存在にして軽く扱っていないでしょうか。
反対に、神を遠すぎる存在と思って、恵みを受け取ることをやめていないでしょうか。
神は聖なる方です。
しかしその聖なる神が、救い主をこの世界に送ってくださいました。そして、十字架にまでつけて下さいました。そして復活して今も生きておられます。そして、確かに働き続けてくださっているのです。
今日の問いはこうです。
あなたは神の前に、畏(おそ)れなく気軽に立っているでしょうか。
それとも、畏(おそ)と敬いをもって立っているでしょうか。
また、あなたは神の約束を「自分には無理だ」と閉ざしていないでしょうか。
ルカ1章の神は、無理だと思えるところに救いの始まりを置かれる方です。
だから今日、私たちは神を畏(おそ)れ敬いつつ、同時に希望と確信をもって、その前に立つことができるのです。

