主に抱かれ、主にしがみつく――ハバクク書に見る試練の中の希望、救いの神にあって楽しむ

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タイトル:主に抱かれ、主にしがみつく――ハバクク書に見る試練の中の希望、救いの神にあって楽しむ

ハバククという名前には「抱きしめる」「からみつく」という意味があるとされています。試練の中でも主に抱かれ、主にしがみついて歩む信仰とは何か。
嘆きが賛美へ変えられていくハバククの歩みから学びます。状況が良くなったから喜ぶのではなく、状況が厳しくても「しかし、私は主にあって喜ぼう」と決心する。ハバクク書3章18節にあるこの力強い信仰の言葉から、私たちの歩みを励ますメッセージです。

ハバククは嘆きながら主に向かった預言者だった

ハバクク書を読むと、まず驚かされるのは、預言者ハバククがとても率直に神様に訴えていることです。
彼は最初から力強く勝利を語っているのではありません。むしろ、「いつまでですか、主よ」と叫びながら始めています。
ユダの国は衰えていました。 神の民はみことばに耳を傾けなくなり、偶像礼拝が続き、弱い者が虐げられ、暴虐と争いが広がっていました。 ハバククはその現実を見て、心を痛めました。
信仰者というと、何があっても少しも揺れない人のように思うことがあります。 しかしハバククは違いました 彼も苦しみました。戸惑いました。納得できずに神様に訴えました。
ここに大きな慰めがあります。 私たちも「なぜですか」「いつまでですか」と祈ることがあります。 それは信仰がないからではありません。 むしろ、神様を本当に求めているからこその叫びです。
嘆きを神様のもとへ持っていくこと。 それは不信仰ではなく、主に向かう信仰の姿なのです。

神様の答えはすぐに理解できるものではなかった

神様はハバククに答えられました。 しかし、その答えはハバククにとって、すぐに納得できるものではありませんでした。
神様は、カルディア人、つまりバビロンを用いてユダをさばくと語られたのです。 ハバククにしてみれば、「なぜ自分たちよりもさらにひどい国を用いるのですか」と言いたくなるようなことでした。
私たちも、神様のなさることがすぐにはわからない時があります。 どうしてこんなことが起こるのか。 なぜこの道なのか。 なぜもっと早く助けてくださらないのか。
そのように思う時があります。
けれど神様は言われました。
この幻は、定めの時について証言し、終わりについて告げ、偽ってはいない。もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。遅れることはない。
私たちの目には遅く見える時があります。 しかし、神様のみわざは決して遅れません。 神様の時計は狂っていません。 私たちが見えていないだけで、主はすでにご計画を進めておられるのです。
種が土の中で見えなくても、そこで命が働いているように、神様のみわざもまた、見えないところで進んでいます。

ハバククの心は対話を通して変えられていった

ハバクク書のすばらしいところは、預言者の心が変えられていくところです。 最初は嘆きと問いかけで始まったのに、最後は祈りと賛美と信仰告白に変わっていきます。
疑い信頼へ 嘆き賛美へ
これは、ハバククが自分で無理に前向きになったということではありません。 主と対話し続ける中で、主を知っていったのです。
ハバククという名前には、「抱きしめる」「からみつく」という意味があるとされます。 なんとふさわしいことでしょうか。 彼は試練の中で主に抱かれ、また主にしがみつくようにして歩んだのです
信仰とは、苦しみが一瞬でなくなることではありません。 信仰とは、苦しみの中で向く方向が変わることです。 絶望の方を見つめ続けるのではなく、主を見上げることです。
嵐の中で木にしがみつく人のように、私たちもまた、主にしがみつくのです。 その時、私たちは実は自分が主にしがみついているだけでなくもっと深く主に抱かれていることを知るのです。

「しかし、私は主にあって喜び躍る」という決心

ハバクク書3章17節から18節は、本当に力強い信仰告白です。
いちじくの木に花が咲かない。 ぶどうの木に実りがない。 オリーブも不作。 畑には食物がない。 羊も牛も失われる。
つまり、生活の支えが崩れていくのです。 精魂込めて育てたものが失われ、将来の見通しも暗い。 これは、ただ気分が落ち込むという程度ではありません。 現実そのものが厳しいのです。
けれど、そこでハバククは言います。
しかし、私は主にあって喜び躍り、わが救いの神にあって楽しもう。
この「しかし、私は」が大切です。 環境がこうだから、気分がこうだから、周りがこうだから、ではありません。 しかし、私は これは信仰の決心です。
文法的にも、自分を励ます表現だと言われます。 「私はそうしよう。私は主にあって喜ぼう。」 そう自分に言い聞かせ、信仰をもって立ち上がっているのです。
ここでの喜びは小さなものではありません。 ただ少し気分が明るくなる程度ではありません。 歓喜する、大喜びする、心躍るほどの喜びです。
しかも、その喜びは「状況の中に」ではなく、主にあってなのです。 救いの神にあって楽しむのです。
私たちも同じです。 すべてが整ったから喜ぶのではありません。 問題がなくなったから楽しむのでもありません。 救いの神が変わらず生きておられるから、主にあって喜ぶのです。

主は私たちの足を雌鹿のようにしてくださる

ハバククは最後にこう告白します。
私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。
なんと美しい言葉でしょうか。 雌鹿は険しい岩場でも軽やかに進みます。 人間にはとても無理だと思える場所を、すばやく、しっかりと進んでいきます。
私たちはよく、「自分には無理です」と思います。 責任が重い。 心も体も弱い。 足取りが重い。 高く飛ぶどころか、低空飛行で精一杯だ。
でも、主は言われます。 「わたしがあなたの力だ」と。
自分の力で高く飛ばなくてよいのです。 主が足を整え、主が支え、主が高い所を歩ませてくださるのです。
超低空飛行の日々でもいいのです。 主はそこからでも引き上げてくださいます。 崖のように見える場所でも、雌鹿の足のように進ませてくださいます。
そして主は、高い所の景色を見せてくださいます。 今は見えなくても、「ああ、この道にも主の守りがあった」と後でわかる時が来ます。 苦しみが無駄ではなかったと知る時が来ます。

まとめ――これからも主に抱かれ、主にしがみついて歩もう

ハバククの信仰は、現実を無視した楽観ではありません。 暗い時代を見つめた上で、それでも主を見上げる信仰です。
苦難はあります。 涙もあります。 足取りが重い日もあります。 しかし、それでもなお奪われない喜びがあります。
それは、主にあっての喜びです。 救いの神にあっての楽しみです。
ですから私たちも、これからの日々を、主に抱かれ、主にしがみついて歩みたいのです。 状況が厳しくても、心の中でこう告白したいのです。
「しかし、私は主にあって喜ぼう。」
そしてこう信じたいのです。
主は私の力。 主は私の足を雌鹿のようにしてくださる。 主は高い所を歩ませてくださる。
だから、今日も前を向いて歩みましょう。
救いの神にあって、心を主のほうへ向けましょう。
そして主にあって、喜び、楽しみながら進む歩みを、これからも決心していきましょう。

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