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【まだクリスチャンでない方にも届く】『ゲッセマネの祈りが教えてくれること』
ゲッセマネの祈りが教えてくれること
イエス様が十字架にかかられる前の夜、ゲッセマネという園で、ひとり深く祈られた場面があります。
その祈りは、とても苦しい祈りでした。
聖書には、汗が血のしずくのように落ちるほど苦しまれた、と書かれています。
どうしてそこまで苦しまれたのでしょうか。
それは、これから受ける十字架が、ただ「痛い」「つらい」というだけのものではなかったからです。
そこには、私たちを救うための、とても深い意味がありました。
イエス様は、何に苦しまれたのでしょうか
1. 体の苦しみ
十字架は、昔の非常に残酷な処刑でした。
むち打たれ、傷つけられ、釘を打たれる。
イエス様は、その苦しみを本当に受けようとしておられました。
2. 心の苦しみ
イエス様は愛のお方なのに、人々からばかにされ、ののしられました。
助けに来てくださったお方が、「そんな者ではない」と拒まれたのです。
それは、とても悲しいことでした。
3. 罪のないお方が、罪人の場所に立たれた苦しみ
本当なら、神様に背を向け、罪を持っているのは私たちのほうです。
けれどイエス様は、その私たちの代わりに、罪を背負う者として十字架に向かわれました。
たとえるなら、悪いことをしていない人が、悪いことをした人の罰を代わりに受けるようなものです。
普通なら、そんなことはありえません。
でもイエス様は、それをしてくださいました。
4. 神様から見捨てられる苦しみ
一番深い苦しみはここです。
イエス様は十字架の上で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。
これは、父なる神様との深い交わりの中におられたお方が、私たちの身代わりとして、見捨てられるような苦しみを負われた、ということです。
これは、私たちには簡単には量れない苦しみです。
けれど、その苦しみを通して、私たちが神様に近づけるようにしてくださったのです。
それでもイエス様は進まれた
ゲッセマネでイエス様は、「できますなら、この杯を取りのけてください」と祈られました。
けれどそのあとで、「しかし、わたしの願いではなく、あなたのみこころのようになさってください」と祈られました。
ここに、イエス様の愛があります。
苦しくなかったから進まれたのではありません。
苦しいことを全部知ったうえで、なお進んでくださったのです。
それは、あなたを救うためでした。
私たちは、「こんな私なんか、神様に愛されるはずがない」と思うことがあります。
失敗もある。罪もある。弱さもある。
でもゲッセマネを見ると、そうではないことが分かります。
イエス様は、「こんな私たちのために」苦しみ、祈り、十字架に向かってくださったのです。
死海写本が教えてくれること
イエス様が来られるずっと前に書かれていた旧約聖書の写本が、死海写本として見つかっています。
そこにはイザヤ書も含まれていて、イザヤ53章には、救い主が人々のために苦しみを負うことが、すでに記されていました。
これは大切なことです。
つまり、イエス様の十字架は、後から作られた話ではない、ということです。
神様は最初から、救いの道を用意しておられました。
イエス様は、そのご計画の中で、私たちのために来てくださったのです。
ゲッセマネは、あなたにも関係がある
ゲッセマネの祈りは、遠い昔の出来事ではありません。
それは、「神様は、あなたをどれほど愛しておられるか」を示す出来事です。
あなたが寂しい時、
自分はだめだと思う時、
罪を思って苦しくなる時、
人生が重く感じる時、
その時に思い出してほしいのです。
イエス様は、あなたを放ってはおかれませんでした。
あなたを救うために、あの園で苦しみ、祈り、従い、十字架へ進んでくださいました。
だから、イエス様の前にそのまま来てよいのです。
立派になってからでなくてよいのです。
きれいになってからでなくてよいのです。
苦しいまま、弱いまま、「主よ、私を救ってください」と言ってよいのです。
イエス様のゲッセマネの祈りは、
あなたを愛している、あなたを救いたい、という神様の心のあらわれなのです。

