
ことばは人となって来られた、暗闇の中に輝く光はイエスキリスト(ヨハネ1章が語る希望の福音)
ことばは人となって来られた
この記事の目次
暗闇の中に輝く光、ヨハネ1章が語る希望の福音
「神様はおられるのだろうか。」
「もしおられるなら、なぜ見えないのだろうか。」
「こんなに苦しいことがあるのに、神様は遠いのではないか。」
そのように思ったことのある方は少なくないと思います。
聖書に興味はあっても、
「難しそうだ」
「自分にはよくわからない」
と感じる方もおられるでしょう。
特にヨハネによる福音書1章は、
最初にこう書かれているので、少し戸惑うかもしれません。
「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」
「ことばって何だろう。」
「急に難しい。」
そう思っても不思議ではありません。
でも、ここで語られていることは、実はとても大切で、しかも私たちの人生に深く関わる希望の知らせです。
今日は、できるだけやさしく、わかりやすく、ヨハネ1章が伝えている福音の中心を見ていきたいと思います。
「ことば」とは、イエス・キリストのことです
ヨハネ1章で言われている「ことば」とは、イエス・キリストのことです。
ヨハネは、イエス様がただの立派な先生ではないことを最初にはっきり語ります。
良いことを教えた人。
愛について語った人。
奇跡をした人。
それだけではありません。
イエス様は、**初めから神であられたお方**だとヨハネは語っているのです。
これはとても大きなことです。
たとえば私たちは、神様のことを考えると、
「どこか遠くにおられる存在」
「近づきにくい存在」
「自分とは関係が薄い存在」
のように感じやすいものです。
けれど聖書は、神様は遠いままでおられたのではなく、
私たちのところへ来てくださったと言うのです。
これが福音の驚きです。
神様は遠くから見ているだけではなかった
ヨハネ1章14節には、こうあります。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」ヨハネ1章14節
ここは本当に大切なところです。
神様は、ただ天の高いところから
「がんばりなさい」
「ちゃんとしなさい」
と言うだけのお方ではありません。
私たちの弱さも、
涙も、
迷いも、
傷も、
痛みも、
まるで他人事のように見ておられるお方ではありません。
神様ご自身が、人となって来てくださった。
それがイエス・キリストです。
これは、たとえるなら、
深い穴に落ちた人に向かって、上から
「そこから上がってきなさい」
と言うだけではなく、
その人を助けるために、自分が穴のところまで降りてきてくださるようなものです。
神様は、そういうお方です。
私たちは、自分の力だけで神様のところまで上がっていけません。
罪があり、弱さがあり、迷いがあり、自分ではどうにもならないからです。
でも神様は、私たちのほうへ来てくださいました。
ここに、神様の深い愛があります。
この世には暗闇があります
ヨハネ1章は、イエス様を「光」とも呼んでいます。
なぜでしょうか。
それは、この世に暗闇があるからです。
罪の暗闇があります。
自分中心に生きてしまう暗闇があります。
人を傷つけ、また自分も傷つく暗闇があります。
迷いの暗闇があります。
どの道を行けばよいのかわからない。
何のために生きているのかわからない。
そういう暗闇です。
不安の暗闇があります。
将来が見えない。
健康のことが心配。
家族のことが心配。
お金のことが心配。
心が暗くなることがあります。
悲しみの暗闇もあります。
大切な人を失った悲しみ。
思い通りにいかない悲しみ。
孤独の悲しみ。
「だれもわかってくれない」という痛み。
私たちは、こうした暗闇の中を生きています。
時には、自分でも気づかないうちに、
心が暗くなっていることがあります。
表面では笑っていても、
心の奥では疲れ切っていることがあります。
その暗闇の中に、光が来てくださった
ヨハネは言います。
「その光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」
なんと力強い言葉でしょうか。
ここで大切なのは、
「暗闇がなかった」ことにならないのです。
暗闇はあります。
現実にあります。
でも、その暗闇の中に光が輝いているのです。
しかも、闇はその光に打ち勝てなかったのです。
たとえば、真夜中の海を思い浮かべてください。
真っ暗で、どこへ向かえばよいかわからない。
でも、遠くに灯台の光が見えたらどうでしょうか。
その光が命綱になります。
イエス様は、まさにそのような光です。
私たちの人生にも、夜のような時があります。
先が見えない時があります。
何もわからなくなる時があります。
でも、その時にさえ、
キリストの光は消えていません。
私たちの心が暗くても、
世界が混乱していても、
人生に問題があっても、
主の光は今も輝いています。
だから希望があるのです。
なぜ私たちには、この光が必要なのでしょうか
それは、私たちが自分の力だけでは本当の光を見つけられないからです。
人は、
「自分なりに正しく生きよう」
「自分なりにまじめにやろう」
と思います。
それ自体は大切なことです。
でも、それだけでは心の深いところは解決しません。
なぜなら、問題は外側だけではなく、内側にもあるからです。
聖書は、それを「罪」と呼びます。
罪とは、ただ悪いことをすることだけではありません。
神様を神様とせず、
神様抜きで生きようとすることです。
自分が中心になって生きることです。
そこから、さまざまな暗闇が生まれます。
だから私たちに必要なのは、
少し気分が明るくなることだけではありません。
一時的な励ましだけでもありません。
本当に必要なのは、
『神様との関係が回復されること』です。
そしてそのために、イエス様が来てくださったのです。
イエス様は、私たちを救うために来られた
ヨハネ1章は、イエス様がどれほどすばらしいお方かを語るだけではありません。
そのお方が、私たちのために来てくださったことを語っています。
つまり、
神様は私たちを見捨てなかったということです。
罪の中で迷っている私たちを、
暗闇の中でうずくまっている私たちを、
神様は放っておかれませんでした。
イエス様はこのあと、十字架へ向かわれます。
私たちの罪を背負うためです。
私たちが受けるべき裁きを身代わりに受けるためです。
そして、よみがえられます。
それによって、罪と死に勝利されるのです。
ヨハネ1章は、その大きな福音の入口です。
神が人となって来られた。
それは、私たちを本当に救うためだったのです。
この主を受け入れる人に、新しいいのちが与えられる
ヨハネ1章12節には、こうあります。
「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」
これは本当に大きな素晴らしい約束です。
イエス様を受け入れる。
それは、ただ「イエスという名前を知る」ことではありません。
まず、『神様を神様とせず偽りの神を神としていた罪をはっきり悔い改めて、
イエス様ががわたしの罪の刑罰を身代わりに十字架にかかり死んで下さり、三日目に甦えってくださった救い主だと信じる』ことです。
その時、あなたは神様との新しい関係に入れられます。
あなたは、神の子どもとされるのです。
どんなにすばらしいことでしょうか。
今まで遠いと思っていた神様が、
父として近くなってくださる。
今まで暗闇だらけだった人生に、
本当の光が差し込むのです。
今まで迷いの中にいた心に、
新しいいのちが始まり、新しいいのちを生きるのです。
これが福音です。
私たちはどう応答したらよいのでしょうか
まず、イエス様を遠くに置いたままにしないことです。
「良いことを言った人だな」
「聖書に出てくる大事な人物だな」
それだけで終わらせないことです。
このお方は、あなたのために来てくださったお方です。
あなたの暗闇を照らすために来てくださったお方です。
あなたを神様のもとへ連れ戻すために来てくださったお方です。
だから、このお方を受け入れるのが最善なのです。
また、今すぐすべてがわからなくても大丈夫です。
最初から全部理解できる人はいません。
でも、灯台の光を見ながら船を進めるように、
まずこのお方を見上げて一歩ずつ歩めばよいのです。
不安があってもよいのです。
迷いがあってもよいのです。
心が弱っていてもよいのです。
そのままのあなたのところへ、
ことばなる主は来てくださったのですから。
まとめ――主の光は、今もあなたのために輝いている
ヨハネ1章は、少し難しく見えるかもしれません。
でもそこで語られている中心は、とてもあたたかいものです。
神様は遠いままでおられなかった。
ことばなるキリストが、人となって来てくださった。
暗闇の中に、光が来てくださった。
そして今も、その光は輝いている。
これがヨハネ1章の希望の福音です。
もし今、心が暗いなら、
もし今、先が見えないなら、
もし今、「神様は遠い」と感じているなら、
覚えてほしいのです。
『ことばは人となって来られた。』
『その光は闇の中に輝いている。』
『闇はこれに打ち勝たなかった。』
主の光は、今もあなたのために輝いています。
どうかその光を見上げてください。
そして、そのお方を神として主として受け入れてください。
イエス・キリストは、
ただ昔の人ではありません。
今も生きておられる救い主です。
その主が、あなたの暗闇を照らし、
あなたの人生に本当の希望を与えてくださるのです。
