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主の恵みは、一人の小さな従順から始まる
――ヨハネ6章 五千人の給食に見る、小さなささげものを用いられる主
ヨハネ6章の五千人の給食は、とても有名な奇跡です。
大勢の群衆がイエス様のもとに集まり、夕方になり、食べるものがありませんでした。
弟子たちは困りました。
「こんなに大勢の人に、どうやって食べさせることができるだろう。」
それは当然の思いでした。
現実を見れば、どう考えても足りないのです。
けれども、この大きな奇跡の始まりは、実は「たった一人の小さな従順」からでした。
それが、少年の持っていた五つのパンと二匹の魚です。
人の目には小さすぎるものだった
弟子のアンデレは言いました。
「ここに、大麦のパン五つと魚二匹を持っている少年がいます。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
この言葉には、正直な現実感があります。
「あるにはある。でも、足りなさすぎる。」
まさにそうです。
少年のお弁当は、一人分か、せいぜい少し分けられる程度のものでしょう。
五千人もの人々の前では、まるでコップ一杯の水で大火事を消そうとするようなものです。
人間の目で見れば、「意味がない」と思えるほど小さいものでした。
私たちも同じように感じることがあります。
「私の祈りなんて小さい。」
「私にできることなんてたいしたことがない。」
「こんな少しの親切や奉仕で何が変わるのか。」
そう思ってしまうことがあります。
けれども、聖書はここで大切なことを教えています。
神様の御業は、最初から大きく見えるものによって始まるとは限らない、ということです。
むしろ主は、人が小さいと思うものを通して、大きな恵みを現されることがあります。
少年は小さなものを差し出した
この少年の名前は書かれていません。
どこの誰かもわかりません。
けれども、この名もない少年の小さなささげものが、聖書に記される出来事の出発点になりました。
少年は、自分の持っていたものを差し出しました。
全部を理解していたわけではないでしょう。
「これで五千人が満たされる」と考えていたとも思えません。
ただ、自分の持っている小さなものを、主の前に出したのです。
ここに従順があります。
従順とは、「大きな結果が見えるからする」ということではありません。
「主が求めておられるなら、お渡しする」という姿勢です。
結果が見えなくても差し出す。
意味があるかどうか計算できなくても従う。
これが信仰の一歩です。
私たちは、つい
「もっと力がついたら」
「もっと整ったら」
「もっと立派になったら主に用いられる」と考えがちです。
しかし主は、「今あなたの手にあるもの」を求めておられるのです。
完璧なものではなくてもよいのです。
大きなものではなくてもよいのです。
小さくても、主に差し出されるなら、それは主の御手の中で用いられます。
主の御手にあるとき、小さなものは祝福の器になる
イエス様は、そのパンを取り、感謝をささげ、座っている人々に分け与えられました。
魚も同じようにされました。
すると、みなが十分に食べたのです。
しかも、それで終わりではありませんでした。
余ったパンくずを集めると、十二のかごがいっぱいになりました。
ここに主の恵みの豊かさがあります。
主は「なんとか足りた」という程度では終わらせません。
あふれるほどに与えてくださるお方です。
少年の手の中にある時、そのお弁当は小さなものでした。
しかし、主の手の中に置かれた時、それは多くの人を生かす祝福となりました。
これは私たちの人生にもそのまま当てはまります。
私たちの時間も、体力も、言葉も、経験も、祈りも、自分の手の中に握りしめて見ていると「小さいな」と思います。
でも、それを主にお渡しするなら、主はそれを思いを超えて用いてくださいます。
たとえば、短い祈りでも、主はその祈りを用いて人を支えてくださることがあります。
何気ない励ましの言葉が、だれかの心を立ち上がらせることがあります。
小さな親切が、その人にとって大きな慰めになることがあります。
ほんの少しの従順が、だれかの人生の転機になることさえあります。
私たちは、結果の大きさを見てから従うのではありません。
主に信頼して、小さな一歩を踏み出すのです。
すると主が、その先をしてくださいます。
今日、あなたの「五つのパンと二匹の魚」は何か
この御言葉を読む時、私たちは自分に問いかけることができます。
「今、私の手の中にある五つのパンと二匹の魚は何だろうか。」
それは、人よりも少ないと思っている賜物かもしれません。
ほんのわずかな時間かもしれません。
小さな祈りかもしれません。
だれかにかける優しい一言かもしれません。
あるいは、傷ついた経験さえ、主はだれかを慰めるために用いることがおできになります。
大切なのは、「小さいから無意味だ」と決めつけないことです。
主の前では、小ささは障害ではありません。
むしろ、小さいからこそ、主の力がはっきり現れることがあります。
神様は、いつも大きな人、強い人、有名な人から始められるとは限りません。
むしろ、名もない少年の小さな従順を通して、五千人を満たされました。
ですから私たちも、「私なんか」と引っ込む必要はありません。
主は、あなたの小さな従順を喜んで受け取ってくださるのです。
まとめ
ヨハネ6章の五千人の給食は、
主が空腹を満たされた奇跡であると同時に、
主が小さな従順をどれほど尊く用いられるかを教える出来事でもあります。
少年は、大きなことをしたのではありません。
ただ、自分の持っている小さなものを差し出しました。
しかし、その小さな従順が、主の御手の中で大きな祝福へと変えられました。
私たちも今日、同じ主の前に立っています。
「こんなものでは足りない」と思うようなものでも、主にお渡ししてよいのです。
小さな祈り、小さな奉仕、小さな愛、小さな信仰。
主は、それを軽んじられません。
主の恵みは、一人の小さな従順から始まります。
今日もまた、あなたの手の中にあるものを主に差し出す時、主はそれを通して、あなたの思いを超える祝福をあらわしてくださるのです。

