「わたしはいのちのパンです」たましいの餓えを満たす主

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「わたしはいのちのパンです」たましいの餓えを満たす主

私たちは毎日、食べ物を必要としています。
朝ごはんを食べなければ力が出ませんし、何も食べずにいれば体は弱っていきます。
体が生きるためには、パンが必要です。
けれども聖書は、それだけではないことを教えています。
人には、体だけでなくたましいがあります。
そして、たましいにもまた飢えがあるのです。
ヨハネ6章で、イエス様ははっきりと言われました。
「わたしはいのちのパンです。」
これはとても大切な御言葉です。
なぜなら、イエス様はここで、「パンを与える者です」と言われただけではなく、**「わたし自身が、あなたがたに必要なパンなのです」**と語られたからです。
今日はこの御言葉から、たましいを本当に満たす主について見ていきたいと思います。

 1. 人のたましいには、目に見えない飢えがある

人は、体の空腹はよくわかります。
お腹がすけば、何か食べたいと思います。
しかし、たましいの空腹は、少しわかりにくいことがあります。

 1-1. 心にも飢えがある

たとえば私たちは、こんな思いを持つことがあります。
「だれかに愛されたい。」
「安心したい。」
「自分の人生に意味があると思いたい。」
「本当に満たされたい。」
このような思いは、たましいの飢えです。
外から見れば元気そうに見えても、内側では深い寂しさや空しさを抱えていることがあります。

1-2. 外側が整っていても、内側が空っぽになることがある

仕事がある。
家族がいる。
住む場所もある。
食べるものにも困っていない。
それでも、心のどこかで「何かが足りない」と感じることがあります。
それは、たましいが「本当に必要なもの」を求めているからです。
人は、物だけでは生きられません。
心が満たされなければ、外側が整っていても苦しくなるのです。

2. この世のものでは、たましいの飢えは満たされない

私たちは、たましいの飢えを何とか埋めようとします。
楽しみを求めます。
人から認められようとします。
成功を目指します。
お金や安心を得ようとします。
もちろん、それらすべてが悪いわけではありません。
しかし、それらはたましいの一番深いところまでは満たせません。

 2-1. この世の満たしは、一時的である

おいしいものを食べればうれしいです。
ほしかったものを手に入れれば楽しいです。
人に認められれば安心もします。
けれども、その喜びは長く続かないことがあります。
また不安になります。
また寂しくなります。
また別の何かを求めます。
この世のパンは、食べてもまたお腹がすきます。
それと同じように、この世のものは一時的な慰めにはなっても、たましいの深い飢えを完全には満たせないのです。

2-2. 人は満たされたつもりでも、また渇く

だから人は、いつまでも何かを探し続けます。
もっと愛されたい。
もっと認められたい。
もっと安心したい。
もっと満たされたい。
けれども、その「もっと、もっと」は終わりません。
たましいの一番深い飢えに届くものが、この世にはないからです。

 3. イエス様は「わたしはいのちのパンです」と語られた

そのような私たちに向かって、イエス様は言われました。
「わたしはいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがありません。」
(ヨハネ6:35)
なんと力強い御言葉でしょうか。

 3-1. 主はパンを与えるだけでなく、ご自身がパンである

ここで大切なのは、イエス様が「あなたがたにパンをあげよう」とだけ言われたのではないことです。
**「わたしがパンです」**と言われたのです。
つまり、本当に必要なのは、何かの祝福だけではありません。
主ご自身です。
主を知ること。
主を信じること。
主との交わりの中に生きること。
そこに、たましいのいのちがあります。

3-2. 本当に必要なのは、祝福そのものより祝福の主

多くの人は、「困った時だけ助けてほしい」「必要を満たしてほしい」と願います。
けれども、イエス様が与えたいと願われたのは、それ以上のものです。
一時的な助けだけでなく、主ご自身による永遠のいのちです。
私たちは、主から何かを受けることばかりを求めやすいのですが、主は「まずわたしのもとに来なさい」と招いておられます。
なぜなら、主ご自身こそが、私たちのたましいを本当に生かすお方だからです。

4. 主のもとに行く者は、決して飢えない

イエス様は、「わたしに来る者は決して飢えることがない」と言われました。
これは、もう悩まなくなるとか、試練が一切なくなるという意味ではありません。
そうではなく、どんな中でも、たましいの根っこが主によって支えられるということです。

4-1. 主を信じるとは、主からいのちを受け取ること

信仰とは、ただ「神様はいると思う」ということではありません。
イエス様を、自分のたましいの糧として受け取ることです。
「主よ、あなたなしには私は本当に生きられません。」
「あなたが私のいのちです。」
そう主により頼むことです。

4-2. 主との交わりの中で、心は満たされていく

私たちは一度で完全に強くなるわけではありません。
けれども、御言葉を読み、祈り、礼拝し、主を見上げていく中で、少しずつ心が養われていきます。
疲れた時に御言葉が支えになる。
寂しい時に主の愛を思い出す。
不安な時に祈りの中で平安が与えられる。
それはまさに、いのちのパンによってたましいが養われている姿です。

5. 私たちは何によって生きようとしているのか

この御言葉は、私たちに問いかけます。
「あなたは何によって生きようとしていますか。」
お金でしょうか。
人からの評価でしょうか。
仕事でしょうか。
楽しみでしょうか。
それらは大切な面もあります。
しかし、それが人生の中心になると、揺らいだ時に私たち自身も崩れてしまいます。

5-1. 日ごとの生活の中で、主をたましいの糧として受け取る

私たちに必要なのは、日曜日だけ主を求めることではありません。
毎日の生活の中で、主をたましいの糧として受け取ることです。
朝、短くても祈る。
聖書を少しでも読む。
「主よ、今日も私を養ってください」と心を向ける。
そのような小さな歩みの中で、主は私たちを養ってくださいます。

5-2. 主を求める時、たましいは生かされる

パンを食べなければ体が弱るように、主を求めなければ、たましいも弱っていきます。
だからこそ、主のもとに行くことが必要です。
主を見上げることが必要です。
主の御言葉を受けることが必要です。
イエス様は、今日も言っておられます。
「わたしはいのちのパンです。」

 6. まとめ――たましいを本当に満たすのはイエス・キリストである

私たちのたましいには、深い飢えがあります。
愛されたい。
安心したい。
意味ある人生を生きたい。
本当に満たされたい。
その叫びを、主はよくご存じです。
そしてイエス様は、その飢えに対して、
「わたしはいのちのパンです」
と語ってくださいました。
この世のものでは、たましいの深い飢えは満たされません。
けれども、主のもとに行く者は、決して飢えないのです。
主を信じる者は、決して渇かないのです。
今日も主は、私たちにこう招いておられます。
「なくなるものだけを追いかけるのではなく、わたしのもとに来なさい。」
「わたしを受け取りなさい。」
「わたしによって生きなさい。」
どうかこの主の御言葉が、私たちの心に深く届きますように。
そして、たましいの本当の満たしが、イエス・キリストにあることを、日ごとの歩みの中で味わう者とされますように。

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