
風を見るか、主を見るか。沈みかけた心を支える“伸ばされた手”
説明文:恐れで足元が揺れる時、へブル12章は「イエスから目を離すな」と招きます。ペテロの沈みかけと、主の「すぐに」伸ばされた手から、日常の立て直しを受け取ります。
この記事の目次
導入:目をそらした瞬間に、足が沈むことがある
「目をそらさないで」と言われると、少し厳しい命令に聞こえるかもしれません。
けれど聖書が語るのは、私たちを厳しく縛り付ける言葉ではなく、『命を守るための言葉』です。
海の上を歩いていたペテロが、波風を見た(イエスキリストから目をそらして波風を見た)途端に沈みかけたように、私たちも“見ているもの”が変わると、心と足元が一気にぐらつきます。
だからこそ、へブル人への手紙12章は語ります。私たちは「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」と。
ここでは、ペテロの失敗、旧約の信仰者たちの失敗も取り上げながら、「目をそらさない」とは具体的に何を意味するのか、そして日常でどう実践できるのかを、分かりやすく整理します。
1. へブル12章の中心:見上げる対象が変わると、生き方の中心が変わってしまいます
「走る」ために必要な一点は、イエスキリストから目を離さないことだけ。
へブル12章の流れはシンプルです。
私たちは走るべき道のりがある。けれど途中で、重荷や罪、疲れや恐れが絡みつく。だから転びやすいのです。
そこで鍵になるのが、「イエスから目を離さない」という一点です。
これは気合いを入れて必死になるという話しではありません。焦点をどの場所に置くかという話しです。
人生には風も波もあります。問題もあります。自分の弱さもあります。
でも、その中で【中心に据えるもの】が定まっているなら、信仰の軸が守られるのです。
たとえるなら、暗い道を歩くとき、足元の石につまずきそうになっても、前方の街灯が見えていると歩き続けられます。
石は消えません。でも、光があると進めます。
へブル12章は、「石をなくせ」ではなく、「光を見よ」と教えるのです。
目を離さない=現実逃避ではなく「中心を変えない」
へブル12章が示すイエスの姿は、十字架の苦しみを耐え忍び、辱めをものともせず、神の右の座に着かれたお方です。
つまり私たちの救いは、「私の頑張り」ではなく、「主が成し遂げた救い」に支えられています。ここが揺るがない土台です。
だから「目を離さない」とは、自分を奮い立たせる努力というより、救いの確かさのほうへ心を戻すことです。
主の十字架に、赦しがあり、復活に、絶対的保障があるのです。
ここへ戻るたび、信仰の軸が守られていきます。
2. ペテロの失敗:目をそらすと沈む。でも主の手は「すぐに」伸びる
風を見た途端、恐れが心を支配する
ペテロは熱い人です。前に出る。言葉も早い。決断も早い。
だから失敗も目立ちます。けれど、その失敗の中に福音の光があります。
海の上を歩いた場面を思い出してください。
ペテロは主の言葉に従って船を降り、確かに歩きました。
しかし途中で風を見て恐ろしくなり、沈みかけます。
ここに「目をそらす」ことの典型があります。
イエスを見ている間は歩ける。
けれど風(状況)に焦点が移った途端、恐れが心を支配する。
たとえるなら、自転車に乗るとき、前を見ていると安定しますが、足元ばかり見ているとふらつきやすいのに似ています。
前を見ることは、現実を無視することではありません。航海の途中でどう進めばいいのか分からなくなった船が、港の灯台の灯りだけ一点だけを目指して進んで難を逃れたということはよく聞きます。私たちもイエスキリスト一点だけを目指そうではありませんか。
前を見るからこそ、足元の乱れに飲み込まれずに進めます。
「主よ、助けてください」と叫ぶと、主はすぐ手を伸ばされた
でも、さらに大切なのは次です。
沈みかけたとたんにペテロはイエス様に目を戻して叫びました。「主よ助けて下さい!」と。すると、主は「すぐに」手を伸ばしてペテロを助けられました。
ここに福音の温かさがあります。
私たちの信仰が揺れるとき、主は遠くで腕組みして眺めているのではありません。
沈む寸前の私たちに、すぐ手を伸ばされるお方です。主は遠くで腕組みして眺めているのではありません。
沈む寸前の私たちに、すぐ手をさしだされるお方です。
「目をそらすな」は、沈んだ人に冷たい言葉ではなく、沈みかけた人に差し出される救いの言葉です。
主は、あなたを溺れさせるために命じるのではなく、あなたを生かすために呼びかけてくださいます。
失敗しても終わりではない:復活の主はペテロを立て直された
ペテロはその後も失敗します。
「あなたのためなら死ねます」と言いながら、恐れの中で主を知らないと言ってしまいました。
けれど復活の主はペテロを見捨てません。問いただして終わりではなく、愛を回復させ、もう一度素晴らしい神様からの使命に立つ者とされました。
つまりペテロの物語はこう語ります。
目をそらすと沈む。けれど主はすぐ手を伸ばして助けて下さいます。
そして何度も何度も失敗しても、主は立て直し続けててくださるのです。
3. 旧約の信仰者たちの失敗:私たちの訓練になる恵み
聖書は弱さも迷いも隠さないのです。神様は人間の弱さ愚かさを知ったうえで用いて下さる
聖書は、信仰者の歩みを「きれいに飾った物語」として描きません。むしろ、弱さや迷い、間違いがそのまま書かれています。
アブラハムは恐れから真実を曲げたことがあります。
モーセは怒りで言葉を誤ったことがあります。
ダビデは大きな罪に倒れたことがあります。
エリヤは燃える情熱のあとに、恐れと落胆で倒れ込みました。
読むと胸が痛むこともあります。
でも、ここに恵みがあります。
人は弱い。だからこそ、主の恵みが必要なのです。
失敗の記録は、絶望の材料ではなく、「だから主の恵みが必要だ」と目を戻すための道しるべなのです。
へブル11章から12章へ:「彼らを見よ」ではなく「イエスを見よ」
へブル11章は信仰の人々を並べますが、
12章で言うのは「彼らを見よ」ではなく「イエスを見よ」です。
人は立派でも完璧でもない。
しかし、救い主は完全で、恵みは確か。
だから目をそらさない。
たとえるなら、先輩の成功談は励みになりますが、人生の土台にはなりません。
土台になるのは、主が何をしてくださったか?です。
人を見て一喜一憂するより、十字架と復活を見て確信を得ましょう。これがへブル12章の道です。
なぜ目をそらしてしまうのか:原因別に気づく
恐れ:風が大きく見えすぎる
恐れは、状況を巨大化させます。
「もう終わりだ」「絶対だめだ」と心が決めつけ始めたら、風を見ている合図です。
そのときは短くでいいので、主に向かって叫んでください。
「主よ、助けてください」と。ペテロと同じ祈りです。
罪責感:自分の過去ばかり見てしまう
罪責感が強いと、十字架よりも“自分の過去”を見つめ続けてしまいます。
でも、へブル12章は、十字架を耐え忍ばれた主を見よと言います。
赦しはすでに備えられています。
悔い改めとは、自分を責め続けることではなく、主に向き直ることです。
怒り:相手の言葉に心が縛られる
怒りは目線を奪います。気づけば「相手のこと」ばかり考え、心が燃え続けます。
そのときは「主よ、私の心を守ってください」と祈りつつ、正義と裁きを主に委ねる練習が必要です。
主は見ておられ、適切に扱うことのできる方です。
疲れ:信仰が弱くなったように感じる
疲れていると、霊的にも弱ったように感じてしまいます。
でも多くの場合、単純に“消耗”です。
休むこと、眠ること、食べること、深呼吸すること。
それも信仰の一部です。主は疲れた者を責めず、整え、立ち上がらせてくださいます。
目をそらさないとは、毎日どんな一歩なのでしょうか?
一歩目:十字架の前で正直になる
弱さ、恐れ、怒り、罪責感を隠さない。
それを持ったまま主に近づく。
主は「整理してから来なさい」と言われません。「そのまま私のもとに来なさい」と招かれます。
二歩目:主の言葉に戻る「戻り場所」を持つ
恐れや不安などの状況の声は大きいですが、主の言葉は静かでも確かです。
心が揺れたら、短い聖句でもいいので“その聖句に寄り縋ってください”。
短い一節が、心の向きを戻すハンドルになります。いつもそのような聖句をあらかじめ準備しておきましょう。
三歩目:「主の手の速さ」を信じる
沈みかけたとき、主は「すぐに」手を伸ばしてくださいます。
あなたが助けを求める声は確実に主に届きます。
遅すぎるということはありません。
主は近くにおられ、支え、立て直してくださいます。
結び:目を離してしまっても、いつでもイエス様に目は戻せます。主の栄光のために、もう一歩
私たちの信仰は揺れます。
でも、その揺れは「主の御手の内」です。だから、揺れても終わりではありません。
へブル12章の招きは、いのちの道しるべです。
見よ、十字架のイエスキリストを。
あなたの救いの確かさ(福音)を見よ。
沈みかけたとき、すぐ手を伸ばす主を見よ。
そして、ここが大切です。
主があなたを支えるのは、ただ安心させるためだけではありません。
あなたを立て直し、もう一度走らせ、主の栄光をあらわすためです。
弱いままでもいい。傷があってもいい。問題があってもいい・・・
目を十字架のイエス様に戻し、主に捕まえられ、主と一緒に進むとき、あなたの歩みは「主は救い主だ」という証しになります。
今日、心がぐらつくなら、まず目イエス様にを戻しましょう。
十字架のイエスキリストへ。
そして、主の愛と恵みを信じて、もう一歩だけ前へ。

