聖所の幕が裂けた本当の意味|罪の赦しと神への道が開かれた恵み
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この記事の目次

聖所の幕が裂けた本当の意味|罪の赦しと神への道が開かれた恵み

説明文
イエス・キリストが十字架で死なれたとき、神殿の幕が上から下まで裂けました。この出来事は、罪による隔てが取り除かれ、神への道が開かれたことを示しています。ヘブル書・エペソ書も含め、わかりやすく解説します。


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聖所の幕とは何だったのか

神殿の「聖所」と「至聖所」

旧約時代の神殿には、聖所至聖所という場所がありました。
聖所は祭司たちが仕える場所でしたが、至聖所は特別な場所でした。そこは、神のご臨在をあらわす場所として考えられていました。

この二つの場所の間には、大きな幕がかかっていました。
この幕は、ただの仕切りではありませんでした。とても深い意味があったのです。

幕が示していたもの―聖なる神と罪ある人との隔たり

神は完全に聖なるお方です。
一方で、人間は罪を持つ存在です。
そのため、罪ある人間がそのままで聖なる神の前に出ることはできませんでした。

この幕は、神と人との間に隔たりがあることを目に見える形で示していました。
つまり、「神は聖い」「人は罪を持っている」「だからそのままでは近づけない」ということです。

大祭司だけが年に一度入れた理由

至聖所には、だれでも入れたわけではありませんでした。
旧約聖書によると、大祭司だけが年に一度、特別な日である贖いの日に入ることが許されていました。

それも、自分のため、そして民のためのいけにえの血を携えて入ったのです。
これは、罪の問題がとても重いこと、そして神の前に出るには贖いが必要であることを示していました。


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イエスの十字架で幕が裂けたのはなぜか

マタイ27:51に記された驚くべき出来事

イエス・キリストが十字架の上で息を引き取られたとき、驚くべきことが起こりました。
マタイ27章51節にはこうあります。

すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

これは偶然の出来事ではありません。
神ご自身が、この十字架の死に特別な意味があることを示されたのです。

「上から下まで」が意味する神の働き

聖書は、幕が上から下まで裂けたと書いています。
ここがとても大切です。

もし下から上なら、人間が何とかしたようにも見えます。
しかし上から下です。
これは、神の側から道を開かれたことを示しています。

人が努力して神に届いたのではありません。
神が、キリストの十字架によって、人のために道を開いてくださったのです。

人間の努力ではなく、神が道を開かれた

人は良い行いを積み重ねれば神に近づける、と思いたくなるかもしれません。
でも聖書はそうは教えていません。

私たちは、自分の努力や修行や熱心さによって救われるのではありません。
イエス・キリストの十字架によって神への道が開かれたのです。

たとえば、固く閉ざされた扉を自分でこじ開けることはできません。
でも中にいる方が鍵を開けてくだされば入れます。
神への道も同じです。
神がキリストによって開いてくださったから、私たちは神に近づけるのです。


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幕が裂けたことは何を意味するのか

罪による隔てが取り除かれた

幕が裂けた一番大きな意味は、罪による隔てが取り除かれたということです。

人間が神に近づけなかった理由は、能力が足りないからではなく、罪があるからです。
罪とは、ただ悪いことをするだけではありません。
神を神とせず、自分中心に生きること、神を無視し、逆らうことです。

しかしイエス・キリストは、その罪を背負って十字架で死んでくださいました。
そのために、神と人を隔てていた壁が取り除かれたのです。

キリストの血によって神に近づけるようになった

ヘブル書10章19節には、「イエスの血によって、大胆に聖所に入ることができます」とあります。

これは本当に大きな恵みです。
私たちは自分の正しさによって神に近づくのではありません。
キリストの血によって近づくのです。

だから、救いは自分の頑張りではなく、主の恵みによるのです。
祈るときも、「私は立派だから祈れる」のではなく、「イエス様が道を開いてくださったから祈れる」のです。

旧約のいけにえと祭司制度の完成

旧約時代には、いけにえが繰り返しささげられ、祭司たちが仕えていました。
しかしそれらは、やがて来られる救い主を指し示すものでした。

イエス・キリストは、完全ないけにえとしてご自分をささげてくださいました。
そのため、旧約のいけにえと祭司制度は、キリストにおいて完成したのです。

もう動物のいけにえによって神に近づくのではありません。
十字架につけられ、よみがえられたキリストこそ、救いの完成なのです。


隔ての壁が壊されたとはどういうことか

エペソ2章に見る「隔ての壁」

エペソ2章14節には、
キリストこそ私たちの平和であり、隔ての壁を打ちこわし
と書かれています。

ここで言われている「隔ての壁」は、特にユダヤ人と異邦人の間にあった壁です。
当時、その間には深い違いと敵意がありました。

しかしキリストは、その壁を打ち壊してくださいました。

神と人との和解

十字架はまず神と人との和解をもたらします。
罪によって神から離れていた人が、キリストによって神に近づけるようになりました。

これはとても大きなことです。
神を遠いお方として見るだけでなく、赦しを受け、神のもとへ近づくことができるようになったのです。

ユダヤ人と異邦人、人と人との和解

十字架は、神との関係だけではなく、人と人との関係にも働きます。
ユダヤ人と異邦人の壁が壊されたように、私たちの間にある壁も、キリストによって壊されていきます。

人はすぐに線を引きます。
「あの人とは違う」「あの人は受け入れにくい」と考えてしまいます。
けれども十字架の主は、そんな敵意の壁を壊してくださるのです。

主に赦された者として、私たちも人を受け入れる者へと変えられていくのです。


今の私たちにとっての意味

私たちは大胆に神に祈ることができる

幕が裂けたということは、今の私たちにとって、神に祈る道が開かれたということです。

もちろん、神への恐れと尊敬は大切です。
でも、もう「近づいてはいけない」と言われているのではありません。
キリストにあって、私たちは大胆に神の恵みの御座に近づくことができます。

祈りは、特別な人だけのものではありません。
イエス様を信じる者に、開かれた恵みなのです。

「自分はふさわしくない」という思いを超えて

多くの人は、「自分はこんな者だから神に近づけない」と感じます。
たしかに、私たちは自分のままではふさわしくありません。

けれども大切なのは、自分がふさわしいかどうかではなく、キリストが道を開いてくださったかどうかです。
そして聖書は、「開かれた」と語っています。

だから、自分の弱さや失敗ばかりを見つめるのではなく、十字架の主を見上げることが大切です。

十字架の恵みを受けた者として人を受け入れる

私たち自身が、ふさわしくないのに恵みによって受け入れられた者です。
それなら私たちもまた、他の人に対して高ぶることはできません。

十字架の恵みを知る人は、赦しを知る人です。
受け入れられた人は、受け入れる人へと導かれていきます。

教会もまた、十字架の恵みをあらわす場所でありたいものです。
人を押しのける場所ではなく、主の恵みへと招く場所であるべきです。


まとめ

幕は裂かれ、道は開かれた

イエス・キリストの十字架によって、神殿の幕は裂けました。
それは、神と人との間の隔てが取り除かれたことを示しています。

閉ざされていた道が、主によって開かれたのです。

十字架は今も神への唯一の道

救いは、人間の努力の積み重ねによって与えられるものではありません。
救いは、十字架のキリストによって与えられます。

今もなお、神への道は一つです。
それは、イエス・キリストです。

あなたも神のもとへ近づくことができる

もしあなたが、「自分は遠い」「自分には無理だ」と感じているなら、十字架を見てください。
幕はもう裂かれています。
道はもう開かれています。

だから、あなたも神のもとへ近づくことができます。
自分の正しさではなく、主イエスの恵みによってです。

十字架は、遠く離れていた私たちに向かって、
「大胆に神に近づきなさい。」
と語りかけているのです。

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