バベルの塔が教えてくれること 『人はなぜ苦しみ、イエス・キリストがなぜ必要なのか』

この記事の目次

バベルの塔が教えてくれること

『人はなぜ苦しみ、イエス・キリストがなぜ必要なのか

聖書箇所:創世記11章1〜9節
1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。2 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにレンガを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。4 そのうちに彼らはこう言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」5 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。6 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」8 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからであす。

はじめに

今日は、旧約聖書の中にある「バベルの塔」のお話から、ご一緒に考えてみたいと思います。
バベルの塔というと、
「昔、人々が高い塔を建てようとして、神様に止められた話」
というイメージを持つ方が多いかもしれません。
けれども、この話はただの昔話ではありません。
実はこの中に、今の私たち人間がなぜ苦しむのか、
なぜ心が満たされないのか、
なぜ争いや不安がなくならないのか、
その大事な答えが書かれています。
さらに言うなら、
なぜイエス・キリストが必要なのか、
そのことも、この箇所から見えてきます。

1 バベルの塔は、人間の心の中を映す鏡です

創世記11章で、人々はこう言いました。
「さあ、町と塔を建てよう。」
「天に届くほど高い塔を作ろう。」
「自分たちの名を上げよう。」
「散らされないようにしよう。」
この言葉には、人間の気持ちがよく表れています。
簡単に言うと、こうです。
「自分たちの力で立派なものを作ろう。」
「自分たちの存在を大きく見せよう。」
「自分たちで自分たちを守ろう。」
「自分たちの力で安心を手に入れよう。」
これは、今の私たちにもよく似ています。
人はみな、心のどこかでこう思っています。
「認められたい。」
「価値のある人間だと思われたい。」
「安心したい。」
「人より下に見られたくない。」
「自分の人生を自分の力で何とかしたい。」
ですから、バベルの塔は昔の人だけの話ではありません。
私たちの心の中の姿を映している話なのです。

2 人は、神様なしで生きようとしてしまいます

バベルの塔の一番大きな問題は何でしょうか。
それは、神様がいないことです。
人々は一生懸命に働いています。
力を合わせています。
知恵も使っています。
でも、その中心に神様がおられません。
祈りがありません。
神様の導きを求める心がありません。
神様に従おうという気持ちがありません。
ただ、
「自分たちでやろう」
「自分たちで上に行こう」
「自分たちで自分たちを守ろう」
という思いだけがあります。
これが、聖書が語る「罪」の大事な姿です。
罪というと、多くの人は、
悪いことをすること、
人にひどいことをすること、
うそをつくこと、
そういうことを思い浮かべるかもしれません。
もちろんそれも罪です。
でも、聖書がもっと深く教えている罪とは、
神様を抜きにして生きようとすることです。
神様が自分を造ってくださった。
神様がいのちを与えてくださった。
神様が今日も生かしてくださっている。
それなのに、その神様を無視して、自分中心で生きてしまう。
それが罪です。
人は、神様なしで幸せになろうとします。
神様なしで自分を守ろうとします。
神様なしで満たされようとします。
でも、それでは本当の平安は得られません。

3 人は「神のようになりたい」と思ってしまう

バベルの塔の人々は、天に届くような塔を建てようとしました。
これはただ、高い建物を作りたかったというだけではありません。
そこには、
「自分たちで上に行きたい」
「神様に頼らず、自分たちで大きくなりたい」
そんな思いがあります。
言いかえると、
人は神様の下にいることを嫌がり、自分が上に立ちたくなるのです。
これはとても大きな問題です。
人間は、本来、神様によって造られた存在です。
神様の愛の中で生きるために造られました。
神様を礼拝し、神様に信頼して歩むために造られました。
けれども人は、
「神様より、自分の考えを大事にしたい。」
「神様より、自分の思い通りにしたい。」
「神様に従うより、自分で決めたい。」
そう思ってしまいます。
それが人間の罪の深いところにあるものです。
ですから、バベルの塔は、
「昔の人は高慢だったね」
という話ではありません。
私たち一人ひとりの中にも、同じ心があるという話なのです。

4 だから人の心は満たされないのです

人はなぜ、こんなに一生懸命生きているのに、心が苦しいのでしょうか。
なぜ成功しても、空しいのでしょうか。
なぜ人から認められても、まだ不安なのでしょうか。
なぜ便利になっても、心は平安にならないのでしょうか。
それは、人間の心が、もともと神様なしでは満たされないように造られているからです。
たとえるなら、人の心はコンセントのようなものです。
差し込む場所が違っていたら、電気は流れません。
どんなに形が似ていても、つながるべきところにつながらないと、力は来ないのです。
同じように人間は、神様につながってこそ、本当に生きることができます。
なのに人は、別のもので心を満たそうとします。
お金。
仕事。
人からの評価。
恋愛。
家族。
趣味。
立場。
知識。
宗教的な努力でさえ、神様の代わりになってしまうことがあります。
でも、それらは全部、悪いものではなくても、神様の代わりにはなれません。
だから一時的に安心したようでも、また不安が出てきます。
少し満たされたようでも、また空しくなります。
バベルの塔は、そのことを教えています。
人間が神様なしで積み上げたものは、結局その人を救えないのです。

5 神様は人を見捨てられませんでした

バベルの塔では、神様は人々のことばを乱されました。
そのため人々は、お互いの言っていることが分からなくなり、計画は止まり、散らされていきました。
これは、神様のさばきです。
神様は、人間の高ぶりや自己中心をそのまま放ってはおかれません。
けれども、ここで終わりではないのです。
もし神様がたださばくだけのお方なら、私たちには希望がありません。
でも聖書が語る神様は、さばきだけのお方ではなく、あわれみ深い神様です。
人間は神様に背を向けました。
それでも神様は、人間を見捨てられませんでした。
神様は、人間を救う道を用意してくださいました。
それが、イエス・キリストの十字架です。

6 バベルの塔と十字架は正反対です

ここで、バベルの塔とイエス・キリストの十字架を比べてみたいのです。
バベルの塔では、人間は上へ上へと行こうとしました。
自分たちで高くなろうとしました。
自分たちの名を上げようとしました。
でもイエス・キリストは逆でした。
イエス様は、神の御子であり、本来、天の栄光の中におられるお方です。
それなのに、私たちを救うために、この地上に来てくださいました。
高いところから低いところへ下って来てくださいました。
しかも、ただ来てくださっただけではありません。
私たちの罪を背負い、十字架にかかって死んでくださいました。
人は、自分を上げようとします。
でもイエス様は、自分を低くしてくださいました。
人は、自分を守ろうとします。
でもイエス様は、ご自分を差し出してくださいました。
人は、自分の名を上げようとします。
でもイエス様は、父なる神様のみこころに従われました。
ここに福音があります。
私たちが神様に逆らっていたのに、
イエス様がその罪を背負ってくださったのです。

7 十字架は、あなたのためであります

聖書は、イエス・キリストが十字架で死なれたのは、
私たちの罪のためだと教えています。
それは、誰か特別に悪い人のためだけではありません。
すごくひどいことをした人だけのためでもありません。
私たち一人ひとりのためです。
神様なしで生きようとしてきた。
自分中心に生きてきた。
自分を守ることばかり考えてきた。
神様より自分を大きくしてきた。
その罪のために、イエス様は十字架にかかってくださいました。
そしてイエス様は、死んだままでは終わりませんでした。
三日目によみがえられました。
それは、罪と死に勝たれたということです。
ですから、イエス様を信じる人は赦されます。
新しいいのちをいただきます。
神様との関係が回復されます。
神様の子どもとされます。
これが福音です。
「良い人になったら救われる」という話ではありません。
「頑張って立派になったら神様に受け入れられる」という話でもありません。
そうではなく、
罪人である私たちのために、イエス様が救いを完成してくださった。
だから、そのイエス様を信じるなら救われる。
それが福音です。

8 あなたは何により頼んでいますか

ここで、静かに考えてみたいのです。
あなたは今、何に頼って生きておられるでしょうか。
自分の努力でしょうか。
お金でしょうか。
家族でしょうか。
人からの評価でしょうか。
健康でしょうか。
自分の真面目さでしょうか。
あるいは、「自分はそんなに悪い人間ではない」という思いでしょうか。
でも、それらはあなたの心を最後まで救うことはできません。
どれも大切なものかもしれません。
けれども、救い主にはなれません。
人間は、自分で自分を救えないのです。
だからこそ、救い主が必要です。
その救い主が、イエス・キリストです。
バベルの塔は、
「人は自分では救われない」
ということを教えています。
十字架は、
「神様があなたを救うために道を開いてくださった」
ということを教えています。

結び

バベルの塔は、人間の罪を明らかにします。
人は神様なしで生きようとします。
神様なしで満たされようとします。
神様なしで自分を守ろうとします。
そして、自分を高くしようとします。
でも、その道の先に本当の平安はありません。
本当の救いもありません。
だから神様は、イエス・キリストを送ってくださいました。
イエス様は、私たちの罪のために十字架で死に、三日目によみがえってくださいました。
このお方を信じる者は、罪赦され、神様との新しい関係を与えられます。
あなたはもう、自分の塔を積み上げ続けなくていいのです。
自分を何とか証明し続けなくていいのです。
自分で自分を救おうとしなくていいのです。
イエス様のもとに行ってよいのです。
十字架の主にすがってよいのです。
このお方こそ、あなたを本当に救うことのできる救い主です。

祈り

尊き父なる神様。
私たちは、神様なしで生きようとしてしまう者です。
自分の力で何とかしようとし、
自分を守ろうとし、
自分を高くしようとしてしまいます。
そのような私たちの神様に対する罪を深く教えてください。
そして、イエス・キリストを与えてくださったことを感謝いたします。
私たちの裁かれて当然な神様に対する罪のために身代わりに十字架にかかり、
死後三日目に復活してよみがえってくださった主を感謝いたします。
どうか、このメッセージを聞いた一人ひとりの心に、あなたが働いてください。
自分の力では救われないことを知り、
神様に向きを戻して悔い改めイエス様こそ救い主であると信じることができますように。
不安を抱えている人に平安を与えてください。
心の空しさを抱えている人に、あなたの愛を知らせてください。
自分を守ることに疲れている人に、十字架の恵みを示してください。
私たちを、自分中心の生き方から、神様に信頼する生き方へと導いてください。
イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。

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