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バベルの塔が暴く人間の罪――神なしで生きようとする心と十字架の福音
創世記11章のバベルの塔は、ただ昔の人々の失敗談ではありません。
そこには、神なしで満たされたい、神なしで名を上げたい、神なしで自分を守りたいという、私たち人間の罪の姿が映し出されています。
しかしそのような自己中心の人間を、神様は見捨てず、十字架と復活による救いの道を備えてくださいました。
バベルの塔が示す人間の愚かさと、そこに差し込む福音の光を見つめましょう。
バベルの塔は昔の話ではなく、今の私たちの姿を映している
創世記11章で人々は言いました。
「さあ、れんがを作って、よく焼こう。」
「さあ、町と塔を建てて、その頂が天に届くようにしよう。」
「われわれが全地に散らされるといけないから、われわれの名を上げよう。」
ここには、人間の力強さや団結力が見えます。
一見すると、努力して大きなことを成し遂げようとしている立派な姿にも見えるかもしれません。
しかし、聖書はこの出来事を、人間の輝かしい進歩としてではなく、神に逆らう罪の現れとして描いています。
なぜでしょうか。
それは、
この計画の中に神様がいないからです。
祈りもありません。
神のみこころを求める姿もありません。
神に従おうとする心もありません。
ただ「われわれでやろう」「われわれの名を上げよう」「われわれを守ろう」という思いだけが満ちています。
これは昔の人々だけの問題ではありません。
私たちもまた、神様抜きで人生を築こうとします。
神に従うよりも、自分の考え、自分の実績、自分の力、自分の評判で生きようとします。
バベルの塔は、遠い昔の物語ではなく、今の私たちの心の姿を映す鏡なのです。
バベルの塔が暴く人間の罪の本質とは何か
バベルの塔には、人間の罪の本質がよく表れています。
その中心にあるのは、「神なしで生きたい」という思いです。
第一に、神なしで満たされたいという罪です。
本来、人は神様によって造られ、神様との交わりの中で生きる存在です。
ところが人間は、神ではなく、成功や所有や評価によって心を満たそうとします。
塔を築けば安心できる。
町を築けば満たされる。
力を持てば大丈夫。
そのように考えるのです。
第二に、神なしで自分を証明したいという罪です。
「われわれの名を上げよう」という言葉は、人間の心の叫びです。
人から認められたい。
価値ある者と思われたい。
忘れられたくない。
小さく見られたくない。
だから人は、学歴、仕事、財産、肩書き、人間関係、知識、宗教的な熱心ささえも用いて、自分を高く見せようとします。
第三に、神なしで自分を守りたい、支配したいという罪です。
「散らされるといけないから」という言葉の中には、恐れがあります。
人は不安だからこそ、自分で自分を守ろうとします。
しかしその守り方は、神に信頼することではなく、自分の手で支配し、固め、確保することです。
これが罪です。
罪とは、ただ悪い行いをすることだけではありません。
罪とは、神を神とせず、自分が人生の中心に座ろうとすることです。
人間は神のようになろうとしてしまう
バベルの塔の罪は、もっと深いところで、「神のようになりたい」という人間の高ぶりを表しています。
人間は被造物です。
造られた存在です。
自分で自分を生み出したのではありません。
いのちも、息も、今日という日も、神様から与えられています。
それなのに人は、その神様に従うことを嫌がります。
神の下にいるより、自分が上に立ちたいのです。
これはエデンの園での誘惑と同じです。
「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたは神のようになる。」
また、神のように高くなろうとしたサタンの高ぶりとも重なります。
人間は神の恵みによって生かされているのに、自分の力で神のように立とうとするのです。
私たちは大きな塔を建てていないかもしれません。
けれども心の中には、それぞれのバベルの塔があります。
⑴人に認められたい塔。
⑵負けたくない塔。
⑶人より上にいたい塔。
⑷安心を自分で作りたい塔。
⑸神様に頼るのではなく、自分を積み上げて生きようとする塔です。
しかし、人がどれほど自分を高くしようとしても、人は神にはなれません。
むしろ高ぶりは、破れと混乱を生み出すだけです。
神は人間の高ぶりをそのままにはされない
創世記11章で、主は人々の町と塔をご覧になりました。
そして彼らの言葉を乱し、互いのことばが通じないようにされました。
その結果、人々の計画は崩れ、そこから全地に散らされました。
これは神のさばきです。
神は、人間の高ぶりをそのまま放置なさいません。
神を退け、自分を高くする道は、必ずさばきに至るのです。
けれどもここには、さばきだけでなく、あわれみもあります。
もし人間が神に逆らったまま、力を合わせてどこまでも進んでいったなら、その罪はさらに深く、さらに破滅的になっていったことでしょう。
神は人間の暴走を止めるために、言葉を乱されました。
それは厳しい処置であると同時に、罪に歯止めをかけるあわれみでもありました。
神を離れた人間は、結局ばらばらになります。
神なしの一致は、本当の一致ではありません。
利害が合う間だけつながっているように見えても、やがて心は分裂し、関係は崩れていきます。
神を見失った人間社会の混乱は、バベルの塔から今日に至るまで続いているのです。
バベルの塔と十字架は正反対の道を示している
ここで私たちは、バベルの塔と十字架を見比べたいのです。
バベルの塔では、人間が上へ上へと上がろうとしました。
天に届こうとしました。
自分の名を上げようとしました。
自分たちの力で、自分たちを大きくしようとしました。
しかし福音は、まったく逆の道を示します。
神の御子イエス・キリストは、天の栄光の座におられたお方なのに、私たちのところへ降りて来てくださいました。
低くなられました。
しもべの姿をとられました。
そして、ついには十字架の死にまで従われました。
人間は、自分を高くしようとしました。
キリストは、罪人を救うためにご自分を低くされました。
人間は、「われわれの名を上げよう」と言いました。
キリストは、ご自分の栄光ではなく、父なる神のみこころに従われました。
人間は自分を守ろうとしました。
キリストはご自分を差し出して、私たちを救ってくださいました。
ここに福音があります。
高ぶる人間を救うために、主はへりくだってくださったのです。
十字架と復活だけが、バベルの罪から私たちを救う
私たちは、自分の塔によって救われることはできません。
どれだけ努力しても、どれだけ立派に見えても、どれだけ積み上げても、罪は消えません。
神に逆らっているこの心は、自分では変えられないのです。
だからこそ、イエス・キリストの十字架が必要でした。
主は、神のようになろうとした高ぶりの罪も、
神なしで生きようとする自己中心の罪も、
すべて背負って十字架で死んでくださいました。
そして三日目によみがえり、罪と死に打ち勝たれました。
復活の主は、散らされた者を新しく集めてくださるお方です。
罪によって神から離れ、人とも分かれ、自分自身さえばらばらになっている私たちを、主は恵みによって招き集めてくださいます。
自分の名を上げる人生から、神の御名をあがめる人生へ。
自分を守るための塔を築く人生から、神の言葉に立つ人生へ。
主は私たちを移してくださるのです。
ですから、今問われているのは、私たちがどちらの道を歩むかです。
なおも自分の塔を積み上げるのか。
それとも、自分の罪を認めて十字架の主にすがるのか。
バベルの塔は、人間の罪を暴きます。
しかし十字架は、その罪を赦す神の愛を明らかにします。
そして復活は、新しいいのちの道が開かれたことを告げています。
もう、自分の塔に望みを置かなくてよいのです。
キリストがあなたの救いとなってくださいました。
この主に信頼し、この主の言葉に立って歩む者となっていただきたいのです。

