
この記事の目次
自分の罪に打ちのめされたとき、福音とキリストの愛が明らかにされる
―ローマ7章から8章に学ぶ、絶望の中で見える福音の光―
聖書通読をしていて、心が苦しくなることはないでしょうか。 とくに、「深く考える問い」に向き合うとき、ただ聖書を読んで終わるのではなく、神様の前で自分の心が照らされ、自分自身の本当の姿が見えてきます。
そのとき見えるのは、立派な自分ではありません。 愛に満ちた自分でもありません。 神様をいつも第一にしている自分でもありません。
むしろ、
「できていない自分」 「また同じ失敗をする自分」 「神様の栄光を現すどころか、台無しにしてしまう自分」 「愛したいのに愛せない自分」 「従いたいのに従えない自分」
そういう姿ばかりが見えて、がっかりしてしまうことがあります。
そして心のどこかで、こう思ってしまうのです。
「もうこんな自分を見たくない」 「神様の愛だけ見ていたい」 「こんなみじめな自分を見続けるのはしんどい」
その気持ちは、とてもよく分かります。 自分の罪深さを見ることは、本当につらいことです。 神様の光が明るければ明るいほど、自分の汚れがよく見えてしまうからです。
でも、そこで終わらないでほしいのです。 なぜなら、自分の罪に打ちのめされたその場所こそ、福音が本当に見えてくる場所だからです。
1.ローマ7章は、きれいごとではない私たちの現実を語っている
ローマ人への手紙7章には、とても正直で、生々しい言葉があります。 パウロはこう書いています。
「私には、自分がしていることが分かりません。自分がしたいと願うことは行わず、かえって自分が憎んでいることを行っているからです。」 (ローマ7:15)
これは、本当に心に刺さる言葉です。 「そうなんです」と思わされる方も多いのではないでしょうか。
私たちは、したい善があるのです。 神様を愛したい。 もっと祈りたい。 もっと従いたい。 もっと柔らかい心でいたい。 もっと人を赦したい。 もっと神様に喜ばれる歩みをしたい。
けれど現実には、その通りにできないことがあります。
神様に感謝したいのに、不満が出てくる。 優しくしたいのに、きつい言葉が出てしまう。 信じたいのに、不安が大きくなる。 へりくだりたいのに、自分を守ろうとしてしまう。 主の栄光を現したいのに、自分の思いばかりが前に出てしまう。
だからパウロは続けてこう言います。
「私は、したい善を行わないで、したくない悪を行っています。」 (ローマ7:19)
これが、まさに罪との戦いです。 しかもこれは、神様を知らない人の話ではなく、神様を知り、神様の御心を愛したいと願う者の中にある葛藤として語られています。
クリスチャンになったら、もう罪との戦いがなくなる、というわけではありません。 むしろ神様の光を知ったからこそ、自分の中の罪が以前よりも見えるようになることがあります。
以前は気にもしなかった高ぶりが見えてくる。 以前は当然と思っていた自己中心が見えてくる。 以前はごまかしていた冷たさや不信仰が見えてくる。
それは苦しいことです。 でも、神様があなたを見捨てたから見えるのではありません。 むしろ、神様があなたを愛しておられるからこそ、見せてくださるのです。
2.「私は本当にみじめな人間です」という叫びは、福音の入口
ローマ7章の後半で、パウロはついにこう叫びます。
「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」 (ローマ7:24)
これは、大げさな表現ではありません。 神様の前で自分を見た人の、本音の叫びです。
「自分ではどうにもならない」 「分かっているのにできない」 「変わりたいのに変われない」 「こんな自分に、もううんざりだ」
そういう苦しみを知っている人には、この言葉がよく分かると思います。
もしかしたら、あなたも聖書通読の中で、同じような思いになることがあるかもしれません。 問いかけを通して自分を見つめるとき、 「こんなにも神様を悲しませているのか」 「こんなにも自分中心なのか」 「こんなにも愛がないのか」 と気づかされて、心が沈んでしまう。
でも実は、その叫びはとても大切です。 なぜなら、自分では救えないことが分かって初めて、救い主の必要が本当に分かるからです。
人は、自分が軽い病気だと思っているうちは、命がけの手術の必要性を感じません。 「少し休めば大丈夫」 「少し頑張れば何とかなる」 と思ってしまいます。
でも、自分が本当に重い病であると知ったとき、初めて「助けてください」と心から言えるようになります。
罪も同じです。 自分の罪が浅いと思っているうちは、十字架の必要も浅く感じてしまいます。 でも、自分の罪の深さ、広さ、大きさを知るとき、 「だからこそ、イエス様が必要だったのだ」 と分かるのです。
3.「だからこそ」イエス様の十字架と復活が必要だった
ローマ7章24節の叫びのあと、パウロはこう言います。
「私たちの主イエス・キリストによって、神に感謝します。」 (ローマ7:25)
ここが希望です。 パウロは、自分の中に救いを見つけたのではありません。 「もう少し努力すれば何とかなる」と言ったのでもありません。 「もっと立派になれば大丈夫」と言ったのでもありません。
そうではなく、主イエス・キリストによって、と語ったのです。
つまり、救いは自分の中にはなく、キリストの中にあるのです。
ここが福音です。
私たちは、自分の罪を深く見ると落ち込みます。 そして、「こんな自分はだめだ」と思います。 そのときサタンは、さらにささやいてきます。
「そんなあなたが愛されるはずがない」 「そんなあなたは神様に喜ばれていない」 「そんな失敗ばかりのあなたは終わりだ」
でも、福音はまったく逆のことを語ります。
「そんなあなたのために、イエス様は来られた」
「そんなあなたの罪を負うために、イエス様は十字架にかかられた」
「そんなあなたに新しい命を与えるために、イエス様はよみがえられた」
自分の罪が深いからこそ、十字架が必要だったのです。
自分の無力さが大きいからこそ、復活の力が必要だったのです。
自分がどうしようもない罪人だからこそ、キリストの愛が必要だったのです。
「だからこそ」なのです。
こんな私だからこそ、イエス様が必要だった。
こんな私だからこそ、福音が必要だった。
こんな私だからこそ、神の御子が命を捨ててくださった意味があるのです。
4.ローマ8章は、打ちのめされた者への神様の宣言
そしてローマ書は、8章へ進みます。 そこには、福音の光がはっきりと語られています。
まず、あまりにも有名なこの御言葉です。
「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」 (ローマ8:1)
なんと大きな慰めでしょうか。
私たちは自分を責めます。
失敗したことを責めます。
できなかったことを責めます。
また同じようにつまずいた自分を責めます。
でも、神様の宣言はこうです。
「罪に定められることは決してありません」
ここで大切なのは、「キリスト・イエスにある者」という言葉です。 つまり、これは「自分で十分にできている人」の話ではありません。 「うまく信仰生活を送れている人」の話でもありません。 「もう失敗しない人」の話でもありません。
キリストに結ばれている者、 イエス様を信じている者、 その人は、罪に定められないのです。
なぜでしょうか?
それはイエス様が、私たちの罪を十字架で引き受けてくださったからです。
本来、罪に定められるべき私たちの代わりに、主が裁きを受けてくださったからです。
だから今、神様はキリストにある私たちを、裁きの目ではなく、恵みの目で見てくださるのです。
5.御霊によって生かされる歩み
ローマ8章は、ただ「赦されました」で終わりません。 さらに、聖霊によって生きる新しい歩みを語っています。
「肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。」 (ローマ8:6)
私たちは、自分の罪を見ると「もうだめだ」と思います。
けれど神様は、私たちを絶望に閉じ込めるのではなく、御霊によって新しく歩ませてくださいます。
ここで大切なのは、私たちが自分の力だけで変わるのではない、ということです。
もちろん、悔い改めも必要です。 祈りも必要です。 御言葉に向かうことも必要です。
でも、根本的に私たちを生かし、変え、立たせるのは、聖霊なる神様の働きです。
私たちは、ときどき「もっとちゃんとしなければ」と思います。 「もっと立派なクリスチャンにならなければ」と思います。 でも神様はまず、「自分で頑張れ」とは言われません。 むしろ、「わたしにより頼みなさい」と言われます。
罪に打ちのめされたときこそ、 「主よ、私はだめです」 「主よ、私には力がありません」 「主よ、あなたが助けてください」 と祈ることができます。
その祈りは、弱さのしるしではなく、恵みの入口です。
6.あなたを罪に訴え続ける声は、神様の声ではない
自分の罪が見えてくると、落ち込みます。 でもそのとき、ひとつ気をつけなければならないことがあります。
それは、神様が罪を示されることと、サタンが訴えることは違う、ということです。
神様が罪を示されるとき、それは悔い改めへ導くためです。 福音へ帰らせるためです。 イエス様の十字架のもとへ連れて行くためです。
けれどサタンは、罪を材料にして私たちを絶望に閉じ込めようとします。 「お前なんかだめだ」 「お前はもう愛されていない」 「こんな失敗をするなら、クリスチャン失格だ」 そうやって、キリストのもとから引き離そうとします。
でも、ローマ8章ははっきりと言います。
「だれが、神に選ばれた人々を訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。」 (ローマ8:33)
そしてさらにこうあります。
「だれが、私たちを罪に定めるのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられて、しかも私たちのためにとりなしていてくださるのです。」 (ローマ8:34)
なんという慰めでしょうか。 イエス様は、私たちを責め続けるお方ではありません。 私たちのために、とりなしてくださるお方です。
あなたが自分の愚かさに泣くときも、 あなたがまた同じ失敗をしてしまって落ち込むときも、
イエス様は「もう知らない」と言われるのではなく、 なおあなたのために執り成していてくださるのです。
7.どんなものも、キリストの愛から私たちを引き離せない
そしてローマ8章は、福音の頂点ともいえる言葉で締めくくられます。
「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」 (ローマ8:35)
そして最後にこうあります。
「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力ある者たちも、高い所にあるものも、深い所にあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」 (ローマ8:38-39)
ここに、私たちの救いの安心があります。

どんなに落ち込んでも、 どんなに自分の愚かさに苦しんでも、 どんなにみじめな自分を見せつけられても、 どんな失敗をしても、 どんな涙を流しても、
キリストの愛から引き離されることはありません。
あなたの弱さも、 あなたの自己嫌悪も、 あなたの涙も、 あなたのつまずきも、 キリストの愛より強くはありません。
自分の罪を見ると、 「こんな自分でも本当に愛されているのだろうか」と思ってしまいます。
でも福音は言います。 「こんな自分だからこそ、愛されているのだ」と。
8.だからこそ、私は主に喜ばれたい
ここで大切なのは、恵みを知ることが「じゃあ何をしてもいい」という話ではないことです。 むしろ逆です。![]()

こんなどうしようもない私を、なお愛してくださる。
こんな罪深い私のために、十字架にかかってくださった。
こんな私を、なお見捨てず、御霊によって支え、とりなしてくださる。
この愛を知るとき、心の中にこういう願いが生まれてきます。
「この主に、少しでも喜んでいただける者になりたい」
「もっと主を愛したい」
「もっと主に従いたい」
「もっと主の栄光を現したい」
それは恐れからではありません。 捨てられたくないからでもありません。
愛された者としての、感謝の応答です。
だから私たちは言うのです。
こんな私だからこそ、イエス様が必要です。
こんな私だからこそ、福音が必要です。 クリスチャンになった今もなお、
こんな私だからこそ、イエス様の十字架と復活の恵みが必要です。
私たちは、福音によって救われ、 そして今も、これからも福音の力によって歩んでいくのです。
結び
聖書通読の中で、自分の罪を見せられて苦しくなることがあるでしょう。
神様の前で丸裸にされて、みじめで情けなくて、どうしようもない自分に打ちのめされることもあるでしょう。![]()

でも、その場所で終わらないでください。 そこは、絶望の終点ではありません。 そこは、福音の入口です。
ローマ7章の叫びを知る者こそ、 ローマ8章の慰めを深く知ることができます。
「私は本当にみじめな人間です」 と叫んだ者こそ、 「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」 という言葉の重みを知ることができます。
そして、 「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか」 という約束に、しがみつくことができるのです。
どうか神様が、あなたに福音の本当の意味をさらに深く教えてくださいますように。
そして、自分の罪に打ちのめされるたびに、 その何倍も大きなキリストの愛を見せてくださいますように。
こんな私だからこそ、イエス様が必要です。
こんな私だからこそ、福音が必要です。
こんな私だからこそ、キリストの愛が希望です。
