神様の恵みを当たり前にせず、日々新たにしていく秘訣 ― 民数記11章に学ぶ、感謝を失わない信仰 ―

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神様の恵みを当たり前にせず、日々新たにしていく秘訣

― 民数記11章に学ぶ、感謝を失わない信仰 ―

エジプトを脱出したイスラエルの民は、決して自分たちの力で自由になったのではありませんでした。
神様がモーセを通して導き海を分け荒野で守り、そして毎日マナを与えて養ってくださったのです。
本来なら、彼らは「主はなんとすばらしいお方だろう」と日々どんどん感謝に満ちて歩んでいてもおかしくありません。
ところが民数記11章を見ると、民は不平を言い始めます。
しかもただ一度つぶやいたのではありません
1)神様の恵みの中に生かされていながら、
2)その恵みが“当たり前”になり、
3)ついにはマナに飽き、
4)エジプトの食べ物を恋しがるようになったのです。
ここに、私の姿、あなたの姿、私たち人間の心の姿があります。
そしてこれは、昔のイスラエルだけの問題ではありません。
私たちクリスチャンの心にも、同じことが起こり得るのです

1.神様の恵みとは、本来「当たり前」ではない

まず覚えたいのは、恵みとは、受ける資格のない者に与えられる神様の一方的な愛だということです。
マナは、民が頑張ったごほうびではありませんでした。
荒野で畑を耕して収穫したものでもありません。
ただ神様が、「あなたがたを生かす」と言って与えてくださった天からの食べ物でした。
つまりマナは、神様の愛のしるしでした。
「今日もあなたを見捨てていない」
「今日もあなたを生かしている」
その目に見える証拠だったのです
けれど人は、毎日与えられるものほど、その価値を忘れやすいのです。
空気のようなものです。
普段は意識しません。
でも失って初めて、その大切さに気づきます。
健康もそうです。
家族もそうです。
礼拝できることも、聖書が読めることも、祈れることも、食事があることも、今日生かされていることも、全部恵みです。
本当は一つとして当然ではありません

2.なぜ人は不平不満を言うのか

ではなぜ、恵みの中にいるのに不平不満が出てくるのでしょうか。
民数記11章は、その理由をよく示しています。

(1)今ある恵みより、ないものに目が向くから

民はマナを与えられていました。
それでも彼らは、「魚が食べたい」「きゅうりが恋しい」「にらや玉ねぎが欲しい」と言いました。
つまり、“あるもの”より“ないもの”に心が支配されたのです。
これは私たちにもあります。
神様は多くを与えておられるのに、欠けている一点ばかりを見つめてしまう。
すると心の中で感謝が小さくなり、不満が大きくなります

(2)恵みに慣れてしまうから

最初は感動していたものも、続くうちに普通になります。そして当り前で当然となってしまうのです。
これが人間の愚かさであり自分中心であり、弱さです。
信仰を持ったばかりの頃は、
聖書を読めるだけでうれしかった。
祈れるだけで感謝であふれた。
礼拝に集えることが感謝だった。
けれど年月がたつうちに、それが“いつものこと”になって“当然のこと”としてしまうことがあります。
恵みが減ったのではありません。
受け取る心の感度が鈍ってしまったのです。

(3)苦しい時、過去を美化してしまうから

イスラエルの民はエジプトを懐かしみました。
でもエジプトは奴隷の家でした
自由のない、苦しみの場所でした
それなのに荒野の厳しさの中で、彼らは過去を美しく思い出したのです。
人は苦しい時、現実から逃(のが)れたいあまり、昔を実際以上によく見てしまうことがあります。
「あの頃はよかった」と。
けれど実際には、神様がそこから救い出してくださったのです。
不平不満の心は、神様がしてくださった救いさえも、見えにくくしてしまいます。

3.なぜ恵みを当たり前にしてしまうのか

一言で言えば、恵みの出どころを忘れるからです。
マナそのものを見ると、「またこれか」となります。
でもマナの向こうにおられる神様を見るなら、「今日も主が養ってくださった」となります。
問題は、与えられたものよりも、それを与えておられる主を見失うことです。
贈り物に慣れると、贈り主の愛を忘れてしまう。
それが人間の心です。
だからクリスチャン生活で大切なのは、ただ恵みを数えるだけでなく恵みを与えてくださる神様ご自身を見つめることです。

4.神様の恵みを当たり前にしないための秘訣

では、私たちはどう心がければよいのでしょうか。

(1)「これは恵みだ」と言葉にして数える

感謝は、心の中でぼんやり思うだけでは弱くなります。
「今日も守られました」
「今日も食事をありがとうございます」
「今日も礼拝できました」
「今日も御言葉をいただきました」
と、言葉にして神様に申し上げることが大切ではないでしょうか。
感謝を口に出すと(明確に祈ると)、心の焦点が不満から恵みに移っていきます

(2)毎日の小さな恵みを軽く見ない

大きな奇跡ばかりを待っていると、日々の恵みを見失います。
でも信仰生活は、多くの場合、マナのような“小さく見える恵み”の積み重ねです。
今日も息ができる。
今日も目が覚めた。
今日も主の御名を呼べる。
これらは小さいことではありません。
命を支える神様の手です。

(3)過去の救いを思い返す

イスラエルは、エジプトから救い出された出来事を忘れた時つぶやいてしまいました。
私たちも、自分がどこから救われたのかを思い返すことが大切です。
罪の中にいた私を、主は赦してくださった。
絶望の中で、主は助けてくださった。
何度も守ってくださった。
過去の恵みを思い返す人は、今の恵みも見失いにくくなります。

(4)不平が出たら、すぐ祈りに変える

不平が出てはいけない、と思う必要はありません。
でも不平を育ててはいけません。
不満が心に浮かんだら、その場で祈りに変えるのです。
「主よ、私は今これが苦しいです。」
「不満だらけになりそうです。」
「でもあなたの恵みを見失いたくありません。」
そう祈る時、心は少しずつ整えられていきます。
つぶやきが祈りに変わる時心は主のほうへ向き直ります。

(5)キリストの十字架を見つめる

最大の秘訣はここです。
神様の恵みを新しく受け取るためには、十字架を見つめ続けることです。
私たちは、ただマナを与えられた民ではありません。
御子イエス・キリストの血によって贖われた者です。
神様は、御子さえ惜しまず与えてくださいました。
そこまでして愛してくださったお方が、今日の必要を忘れるはずがありません。
十字架を見る時、私たちは思い出します。
「私は当然に生かされているのではない。
計り知れない恵みの中に置かれているのだ」と。

まとめ

民数記11章は、人がどれほど簡単に恵みを忘れ、不平不満に傾くかを教えています。
けれど同時に、それほど弱い民をなお養い続けられる神様の忍耐とあわれみも示しています
私たちもまた、恵みに慣れ、感謝を失いやすい者です。
しかし主は、今日も
マナのように必要を与え、
御言葉によって養い、
十字架の愛をもって支えてくださいます。
だからこそ、日々こう祈りたいのです。
「主よ。
あなたの恵みを当たり前にする鈍い心から私を守ってください。
今日も新しい恵みとして受け取る目を与えてください。
不平ではなく感謝を、忘れやすさではなく覚える心を、どうぞ私のうちに育ててください。」
神様の恵みは、古びていません。
私たちの心が慣れてしまうだけです。
ですから毎日、主を見上げましょう。

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