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聖書通読第14週 2日目
民数記11章 / ヨハネ5章
不平の中でも、主は見捨てず、弱った人を立たせてくださる
民数記11章とヨハネ5章には、少し共通するものがあります。 それは、人の弱さやつぶやきや行き詰まりの中に、なお神様が関わり、必要を満たし、立たせてくださるということです。
民数記11章では、イスラエルの民が不平を言い、マナに飽き、エジプトの食べ物を恋しがります。 一方ヨハネ5章では、38年間も病んでいた人がイエス様に出会い、新しい人生を歩み始めます。 どちらの章にも、人の弱さがあります。 でもそれと同時に、その弱さのただ中に働かれる神様の恵みがあるのです。
民数記11章の解説
不平は心を曇らせ、神様の恵みを見えにくくする
民数記11章では、民が神様の前に不平を言い始めます。 彼らは荒野でマナを与えられていました。 マナは、神様が毎日与えてくださる恵みの食べ物でした。 それがなければ生きていけなかったのです。
けれど民は、その恵みに慣れてしまいました。 そして、エジプトで食べていた魚やきゅうりやにらや玉ねぎのことを思い出して、不平を言いました。 「マナではもういやだ」と言い始めたのです。
ここに人間の弱さがよく表れています。
人は、神様が今与えてくださっている恵みを忘れ、手元にないものばかりを見ることがあります。
今ある祝福には慣れてしまい、過去のことや他の人のことを見て、不満を募らせてしまうのです。
不平は、心を暗くします。 感謝を奪います。
そして、神様の恵みをますます見えにくくさせます。
民は、エジプトを懐かしみました。 でもエジプトは奴隷の家でした。 苦しみの場所でした。
それなのに、目の前の荒野が苦しいために、過去を美しく見せてしまったのです。
これは私たちにも起こります。 苦しい時、人は過去を必要以上によく見てしまったり、今の恵みを小さく見積もったりしやすいものです。
またこの章では、モーセ自身も重荷に苦しみます。 民の不平を受け止め続けて、彼自身も「私一人では負いきれません」と訴えます。 ここも大事です。 神様の働きをしている人であっても、重圧に疲れ果てることがあるのです。
けれど神様は、そんなモーセを放っておかれませんでした。 70人の長老に御霊を与えて、モーセの重荷を共に担うようにされました。 つまり神様は、ただ「がんばれ」とは言われなかったのです。 助けを備え、支えを与えてくださいました。
ここには、神様の現実的なあわれみがあります。
ヨハネ5章の解説
長い絶望の中にいる人にも、主は声をかけてくださる
ヨハネ5章では、ベテスダの池にいた一人の病人が出てきます。 彼はなんと38年間も病んでいました。 想像してみてください。 一年や二年ではありません。 38年です。 希望を持つことさえ難しかったでしょう。 「どうせ無理だ」と思ってしまうほど長い苦しみです。
その人にイエス様は近づき、こう言われました。
「よくなりたいか。」
一見、不思議な問いかけです。 病んでいる人なら、よくなりたいに決まっているではないか、と思います。 でもこの問いは、単に病気の話ではありません。 長い苦しみの中で、心まであきらめてしまっていないか。 本当に主に期待しているか。そう問いかけているようにも思えます。
病人はすぐに「はい」とは答えず、自分の事情を語ります。 「水が動くとき、池の中に入れてくれる人がいないのです」と。 長い間の失望が、その言葉ににじんでいます。
でもイエス様は、その人の事情をご存じの上で、 「起きて、床を取り上げて歩きなさい」 と言われました。
そして、その人は癒され、歩くようになりました。
ここには大きな希望があります。 人が長い間苦しんでいても、主の御言葉はその人を立たせることができる、ということです。 長い絶望も、主の前では最後の言葉ではありません。 イエス様は、ただ病気を癒すだけでなく、人生そのものを新しくするお方なのです。
神様が喜ばれること
不平ではなく感謝を選び、主の問いかけに心を開くこと
神様が喜ばれるのは、私たちが不平よりも感謝を選ぶことです。 もちろん苦しみを感じないふりをすることではありません。 つらいことはつらいと神様に言ってよいのです。 でも、不平に心を支配させるのではなく、 「主は今日も恵みをくださっている」と感謝に目を向けることを神様は喜ばれます。
また神様が喜ばれるのは、私たちがイエス様の問いかけに心を開くことです。 「よくなりたいか」と主が問われる時、 「はい、主よ」と応えること。 自分のあきらめや言い訳の中に閉じこもらず、主のことばを信じることを神様は喜ばれます。
神様が望んでおられること
日ごとの恵みを受け取り、あきらめた場所にも主をお迎えすること
神様が望んでおられるのは、私たちが今与えられている恵みを軽く見ないことです。
日ごとのマナは、小さく見えても命を支えていました。 同じように、今日の御言葉、今日の守り、今日の食事、今日の支えは、すべて主の恵みです。 それを受け取り、感謝して歩むことを神様は望んでおられます。
また神様が望んでおられるのは、長い間あきらめていた場所にも主をお迎えすることです。
「もう無理だ」と思っていた心の場所。 「どうせ変わらない」と閉じてしまった問題。
そこにもイエス様は来てくださいます。 主は、そのようなところに新しい一歩を与えることがおできになります。
まとめ
民数記11章は、不平が心を曇らせ、神様の恵みを見えなくしてしまうことを教えています。
けれど同時に、神様は疲れたモーセに助けを備えられました。 ヨハネ5章は、長い絶望の中にいた人にも、主のことばが新しい歩みを与えることを教えています。
今日、私たちも覚えたいのです。
主の恵みは、今日も与えられています。 主は、弱った人を見捨てません。 主は、あきらめていた場所にも新しい歩みを与えることがおできになります。
だから、不平に沈み込むのではなく、感謝の目を持ちたいのです。
そして、長い間閉ざしていた心の場所にも、イエス様をお迎えしたいと思います。 主は今日も、恵みをもって私たちを支え、立たせてくださるお方だからです。

