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「わたしだ。恐れることはない」ヨハネ6章に学ぶ、不安の夜に響く主の御声
――ヨハネ6章に学ぶ、不安の夜に響く主の御声
ヨハネ6章には、イエス様が湖の上を歩いて弟子たちのもとに来られる場面が記されています。
この出来事は、ただ「不思議な奇跡が起こった」という話ではありません。
そこには、不安の中にいる者に対する主の深いあわれみと、恐れを静める主の御声がはっきりと示されています。
1. 弟子たちは暗い湖の上で恐れていた
弟子たちは舟に乗って湖を渡っていました。
しかし、風が強くなり、湖は荒れ始めました。
しかも、あたりは暗くなっていました。
ヨハネ6章17節には、「すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった」とあります。
この一言には、弟子たちの心細さがにじんでいるように思えます。
暗い。
風は強い。
波は高い。
そして主がおられないように感じる。
これは、まさに私たちが人生の中で経験する不安の姿ではないでしょうか。
1-1. 私たちにも「すでに暗くなっていた」と感じる時がある
私たちにも、「すでに暗くなっていた」と感じるような時があります。
先が見えない。
どうなるかわからない。
一生懸命やっているのに、前に進んでいる気がしない。
心の中に、冷たい風が吹き続けているような時があります。
信仰を持っていても、不安になることがあります。
祈っていても、心が揺れることがあります。
「主は本当にこの状況をご存じなのだろうか」と思ってしまう夜もあるのです。
1-2. 向かい風は、心を疲れさせる
弟子たちも、舟をこぎながら苦しんでいました。
向かい風ですから、進もうとしてもなかなか進めません。
がんばっても進まない。
力を入れても思うようにならない。
そんな状況の中で、心は次第に疲れ、恐れに支配されていきます。
人は、何もしない時だけでなく、むしろ一生懸命やっているのに状況が変わらない時、深い不安にのみ込まれやすいものです。
2. イエス様は恐れのただ中に近づいて来られた
ところが、その恐れのただ中に、イエス様は来てくださいました。
しかも、岸辺から大声で励ますだけではありませんでした。
湖の上を歩いて、弟子たちに近づいて来られたのです。
これは本当に驚くべきことです。
弟子たちを苦しめていた波の上を、主は歩いて来られました。
つまり、弟子たちが恐れていたものの上に、主は立っておられたのです。
2-1. 主は、私たちを脅かすものの上に立っておられる
ここに大きな慰めがあります。
私たちを不安にさせるものがあります。
病気、将来、経済的なこと、人間関係、孤独、失敗、老い、死への恐れ。
けれども、その私たちを揺さぶるものの上に、主は立っておられます。
主にとって、それらは支配できないものではありません。
私たちには飲み込まれそうに見える波も、主にとっては足の下にあるのです。
2-2. 主が近づいておられても、最初は気づけないことがある
けれども弟子たちは、主が近づいて来られた時、すぐに安心したのではありませんでした。
むしろ、恐れたのです。
マルコの福音書やマタイの福音書を見ると、幽霊だと思って叫んだことも記されています。
主が近づいておられるのに、かえって恐れてしまう。
これもまた、私たちの姿に似ています。
神様の助けが近づいているのに、それに気づかないことがあります。
あるいは、主のなさることが自分の思いと違うために、戸惑ってしまうことがあります。
3. 「わたしだ。恐れることはない」という御言葉の力
その時、イエス様はこう語られました。
「わたしだ。恐れることはない。」
なんと力強く、また優しい御言葉でしょうか。
3-1. 「わたしだ」は、主ご自身を示す言葉
この「わたしだ」という言葉は、ただ「わたしが来たよ」という程度の軽い意味ではありません。
主ご自身が、だれであるかを示す言葉です。
「あなたがたの前にいるのは、主なるわたしだ。」
「この波の上にも立つことのできる者がここにいる。」
「あなたがたを見捨ててはいない。」
そう語っておられるのです。
3-2. 平安は、まず主の御声から与えられる
そしてそのあとに、「恐れることはない」と続きます。
ここで大切なのは、イエス様がまず波を静めてから語られたのではないということです。
先に御声がありました。
先に主のことばが弟子たちに届いたのです。
平安は、まず状況の変化から来るのではありません。
主の御声から来るのです。
3-3. 恐れを静めるのは、問題の解決よりも主の臨在
私たちは、「問題がなくなれば安心できる」と思いがちです。
しかし実際には、ひとつの問題が終わっても、また次の不安がやって来ることがあります。
もし平安が状況だけに依存しているなら、私たちの心はいつまでも揺れ続けるでしょう。
けれども、主が「わたしだ」と語ってくださるなら、たとえ嵐の途中でも、心の中心に平安が与えられます。
なぜなら、平安の根拠は「問題が消えたこと」ではなく、「主がともにおられること」だからです。
4. 主は、恐れている者を責めずに近づいてくださる
これは大きな慰めです。
主は、「あなたは恐れているが、気にしすぎだ」とは言われませんでした。
恐れそのものを責められたのではありません。
そうではなく、恐れている弟子たちのところへ来て、ご自身を示し、御声をかけてくださったのです。
4-1. 主は弱さの中にいる者を突き放されない
ここに主のあわれみがあります。
主は、恐れている者を突き放されません。
弱さの中にいる者に近づいてくださいます。
心が揺れている者を、「しっかりしなさい」と遠くから叱るのではなく、近くに来て、「わたしだ」と語ってくださるのです。
4-2. 不安の夜にこそ、主の御声が必要である
私たちも、不安の夜にこの御声を必要としています。
眠れない夜。
先行きが見えない日々。
祈っても答えが見えず、舟をこぎ続けているような時。
そのような時、主は今も御言葉を通して語っておられます。
「わたしだ。恐れることはない。」
聖書を開く時、この御声を聞くことができます。
祈る時、この御声に支えられます。
礼拝の中で、この御声によって立ち上がることができます。
5. 主を舟に迎える時、平安の歩みが始まる
ヨハネ6章21節には、弟子たちがイエス様を舟に迎え入れようとしたことが記されています。
主を舟に迎える。
これは、私たちの人生に主をお迎えする姿でもあります。
5-1. 主を人生の中心にお迎えする
ただ知識として主を知るだけではなく、現実の不安のただ中に主をお迎えするのです。
「主よ、今この問題の中に来てください。」
「この恐れの中で、あなたの御声を聞かせてください。」
そう祈る時、主は決して遠くにおられません。
5-2. 向かい風の中でも、主とともに進むことができる
私たちの人生には、向かい風があります。
自分ではどうにもならない波があります。
暗い夜もあります。
けれども、そのすべての中で、主はなお生きておられます。
しかも、私たちのところへ近づいて来てくださる主です。
6. まとめ――不安の夜に響く主の御声を聞こう
ですから、今日もし不安の中にいるなら、この御言葉を心に留めたいのです。
「わたしだ。恐れることはない。」
主がともにおられるなら、私たちは恐れに飲み込まれなくてよいのです。
波があるままでも、風が吹くままでも、主の御声は私たちの心を支えることができます。
不安の夜に必要なのは、まず主ご自身です。
主の臨在です。
主の御声です。
どうか今日、あなたの心にも、この主のことばが深く響きますように。
そして、不安よりも大きい主、波よりも高い主、暗闇の中にも来てくださる主を見上げることができますように。
