【クリスチャンでない方へ!福音メッセージ】恵みを当たり前にしてしまう私たちと、それでも見捨てない神様

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恵みを当たり前にしてしまう私たちと、それでも見捨てない神様

― 民数記11章からわかる人間の心と福音 ―

私たちは、何か良いことがあった時には喜びます。
でも、その良いことが続くと、だんだんそれを「普通のこと」「当たり前のこと」と感じるようになります。
たとえば、蛇口をひねれば水が出ること。
電気をつければ明るくなること。
毎日ご飯が食べられること。
最初はありがたいと思っていても、いつの間にか感謝しなくなります。
人間とは、そういうものです。
実は聖書も、そのことをとても正直に語っています。

荒野で食べ物を与えられていたのに、不平を言った人々

民数記11章では、イスラエルの民が荒野を旅していました。
彼らは、神様によってエジプトの奴隷生活から救い出された人たちです。
エジプトでは苦しみ、縛られ、自由がありませんでした。
けれど神様は、その叫びを聞き、彼らをエジプトの奴隷生活から救い出してくださいました。
しかも救い出しただけではありません。
荒野でも毎日、マナという食べ物を与えて、彼らを養ってくださったのです。
本来なら、「神様、ありがとうございます」と感謝して歩んでいてもおかしくありません。
ところが彼らは、最初は感謝し喜んでいました。しかしそのことが長く続くとだんだんこう言い始めました。
「エジプトで食べた魚が恋しい。」
「きゅうり、にら、玉ねぎが食べたい。」
「もうこのマナはいやだ。」
これはとても不思議に思えます。
命を支える食べ物が毎日与えられているのに、なぜ不平を言うのでしょうか。
けれど、これは他人事ではありません。
私たちも同じだからです。

人は、恵みに慣れると感謝を忘れる

人間の心は、恵みに慣れると感謝を忘れます。
たとえば、助けてもらった直後は「ありがたい」と思います。
でも毎回助けてもらっているうちに、いつの間にか「してもらって当然」と感じてしまうことがあります。
まるで、毎日お弁当を作ってもらっている人が、最初は感謝していたのに、だんだん「今日はおかずが少ない」と文句を言うようになるようなものです。
与えられていること自体が大きな恵みなのに、その恵みが見えなくなってしまうのです。
イスラエルの民も同じでした。
神様の愛によって生かされていたのに、その恵みが当たり前になってしまいました。
そして今ある恵みより、ないものばかりを見るようになったのです。

それは私たちの人生そのものでもある

実はこの姿は、私たち人間全体の姿でもあります。
私たちは命を与えられています。
今日も息をしています。
食べ物があり、時間があり、太陽が昇り、人との出会いがあります。
でも、それらを「神様からの贈り物」として受け取るよりも、
「足りないもの」
「思い通りにならないこと」
「失ったもの」
ばかりに目が向いてしまいやすいのです。
そして、感謝より不満が大きくなる。
これが人間の心です。
聖書は、その根っこに「 があると教えています
罪とは、ただ悪いことをいくつかすることだけではありません。
神様を神様として見ないこと
神様からいただいている恵みを忘れ、自分中心に生きること
それが罪です。

罪とは、恵みの中で神様を忘れる病気のようなもの

は、たとえるなら心の目がくもっている状態です。
晴れた日なのに、窓ガラスが泥だらけなら、外の光が見えません。
神様の恵みは本当は注がれているのに、罪によって心の窓が曇っているために、その恵みが見えなくなってしまうのです
だから人は、恵みの中にいても不平を言います。
愛されていても不安になります。
守られていても文句を言います。
そしてついには、イスラエルの民のように、
救い出されたはずの昔の奴隷状態さえも「よかった」と思い始めることがあるのです。
これはとても深い問題です。
人間は、自分で自分の心を完全に直すことができません。

だからこそ、福音が必要なのです

ここで大切なのが福音です。
福音とは、良い知らせのことです。
その良い知らせとは、
そんな私たちを、神様が見捨てなかった
ということです。
イスラエルの民は不平を言いました。
それでも神様は、すぐに全員を捨てて終わりにはされませんでした。
モーセを支え、民に向き合い、なお導こうとされました。
これは、もっと大きな救いを指し示しています。
それが、イエス・キリストによる救いです。
私たちは、神様の恵みを忘れ、感謝を失い、自分中心に生きる罪人です。
本来なら、神様の前に「私は正しい」と胸を張れません。
けれど神様は、そんな私たちを救うために、御子イエス・キリストをこの世に送ってくださいました
イエス様は罪のないお方なのに、
私たちの罪を背負って身代わりに罰を受けるために十字架にかかって死んでくださいました。
そして死んで終わりではなく、三日目に復活してくださいました。
つまり、
神様の恵みを忘れて神様を無視してなき者のようにして生きてきた私たちの罪の責任を、イエス様が代わりに負ってくださった
のです。

福音は「もっと感謝深い人になってから来なさい」ではない

ここが福音のすばらしさです。
神様は、
「まず立派な人になりなさい。」
「不平を一度も言わない人になりなさい。」
「感謝できる人間になってから来なさい。」
とは言われません。
そうではなく、
不平の多いままのあなたを、
感謝の薄いままのあなたを、
それでもわたしは愛している。
だからイエス・キリストの福音(イエスキリストの十字架と復活は私の罪のためであったと悔い改め、イエスキリストを救い主と信じる信仰で救われるという福音)を信じて、
わたしのもとに帰ってきなさい。と招いておられるのです。

あなたも、この恵みを受け取ってよいのです

もし今、
「自分は感謝の少ない人間だ」
「不満ばかりで情けない」
「神様に顔向けできない」
と思っておられるなら、むしろそのままで主の前に出てよいのです。
イエス様は、立派な人を救うためではなく、
救いを必要としている人を救うために来られました。
福音とは、
あなたが良い人だから救われる
という話ではありません。
イエス様があなたの罪のために十字架にかかってくださったと信じることによって、救われる
という話です。
だから、神様の前にこう言ってよいのです。
「神様。
私は恵みを忘れやすい者です。
不平や不満の多い者です。
でも、そんな私の罪のためにイエス様が十字架にかかってくださったこと三日目に甦ってくださったことを信じます。
どうか私を罪を赦し、あなたの恵みの中を生きる者にしてください。」

まとめ

民数記11章は、恵みを受けながら不平を言う人間の姿を映しています。
そしてそれは、私たち自身の姿でもあります。
けれど聖書が語る中心は、
「人間はなんとひどいか」
で終わりません。
そうではなく、
そんな私たちをなお愛し、ついにはイエス・キリストによって救いの道を開いてくださった神様の恵み
こそが中心です。
私たちは、恵みを忘れやすい者です。
でも神様は、そんな私たちを忘れないお方です。
これが福音です。
これが良い知らせです。
そしてこの救いは、今も、あなたに開かれています。

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