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「交換された命(エクスチェンジド・ライフ)」という言葉の意味は、
ハドソン・テーラーの信仰の核心でありながら、初めて聞く方には少し抽象的に感じられるかもしれませんね。
これは一言で言うと、「自分の乏しいエネルギーで頑張るのをやめて、キリストという無限の発電所にコンセントを繋ぎ直す」という生き方の転換のことです。まだわかりにくいですね。
でもたいせつなことなので、長くなりますがじっくり読んで考えてください。
もっと身近な例えを使って、3つのステップでわかりやすく解説します。
この記事の目次
1. 「自分のコップ」と「イエスの蛇口」
私たちは普通、自分の「忍耐」や「信仰心」という小さなコップを持って、そこに入っている分だけで何とか頑張ろうとします。
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「もっと優しくしなきゃ(忍耐のコップ)」
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「もっと信じなきゃ(信仰のコップ)」
しかし、困難が続くとコップはすぐに空っぽになります。空っぽのコップを振っても何も出てきません。ここで「もっと頑張らなきゃ!」と自分を責めるのが、これまでの苦しい生き方です。
「交換された命」とは: 空っぽのコップを必死に満たそうとするのをやめて、**「絶えず溢れ出ているキリストという蛇口(命の源)」**に、自分というコップをそのまま置いてしまうことです。 「私が頑張る」のではなく「私の中におられるキリストが、私を通して生きてくださる」という感覚です。
2. 「スマホのバッテリー」の例え
私たちの命を「スマホ」に例えてみましょう。
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これまでの生き方: バッテリーが残り5%なのに、必死に重いアプリ(困難な仕事や奉仕)を動かそうとして、すぐに電源が切れてしまう状態。
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交換された命: スマホを「常に超高速充電器(キリスト)に繋ぎっぱなし」にする状態。
スマホ自体は弱くても、電源に繋がっていれば、どれだけ重いアプリでもサクサク動きますよね。
ハドソン・テーラーは、「自分というバッテリーの持ちを良くしよう」とする努力をあきらめ、「キリストという電源から一瞬も離れない」ことに集中したのです。
3. ハドソン・テーラーが気づいた「枝」の真実
彼は、聖書のヨハネの福音書15章にある「ぶどうの木と枝」の関係から、この奥義を悟りました。
「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。」(ヨハネ15:5)
枝は、自分で一生懸命「栄養を作ろう」と踏ん張る必要はありません。枝の仕事は、ただ**「幹にしっかりくっついていること」**だけです。そうすれば、幹の方から勝手に栄養(キリストの命)が流れ込んできて、勝手に実が結ばれます。
「寄りかかる」という意味: 「自分がしっかりしなきゃ!」という肩の力を抜いて、「私はただの枝です。幹であるイエス様、どうぞあなたの栄養を私に流してください。あなたにお任せします」と、全体重を預けてしまうことです。
まとめると
「交換された命」とは、以下の交換を行うことです。
私の弱さ ↔ キリストの強さ
私の不安 ↔ キリストの平安
私の乏しい信仰 ↔ キリストの完璧な信仰
「私が信じなきゃ!」と力むのをやめて、「私の中におられるイエス様なら、この状況でも父なる神様を信頼しているはずだ。そのイエス様の信頼(信仰)に、私も乗っかろう!」と考える。
これが、ハドソン・テーラーが掴んだ、どんな逆境でも倒れない「魂の安息」の秘訣なのです。少しイメージが湧いてきましたでしょうか?

