万引きと言えば、
中高生や若い子が気軽にやってしまうというイメージがありました。
でも、現在は高齢者のかたが
万引きをして捕まってしまうというケースがとても増えているそうです。
それも、お金に困ってという人もいるでしょうが、
案外お金にこまっていない高齢者が
万引きをしてしまうということがどんどん増えてきているらしのです。
この記事の目次
何故?高齢者で万引きをする人が増えているのでしょう?
なぜでしょうか。
最近のニュースでも、
ある78歳のおじいさんが万引きで捕まったそうです。
でも、その人は、大きな家に住んで、お金は十分すぎるくらいもっていました。
それなら、なぜ万引きなんかしたのでしょう?
捕まったあとで、そのおじいさんから、信じられない悲しい言葉が発せられました。
自分のことを誰もかまってくれない。
でも、万引きをして捕まったら、いろいろな人が自分のことを気にかけてくれる。
そして、自分のことをかまってくれる。
人は、誰も自分のことをかまってくれないと。
だれからも相手にされない、
だれも自分のことなんか愛してくれないと思ったら、
生きて行くことができないのではないでしょうか。
このようなニュースをきくたびにわたしは、とても悲しくなります。
50歳で高学歴、大会社のエリート社員が万引きの常習犯
また、同じ頃テレビで万引きについて放送していました。
その人は、50際で
会社ではバリバリ仕事のできるエリートだそうです。
でも、最近万引きで逮捕されました。
そのエリートの人が取り調べで語ったことは・・・
仕事や人間関係やストレスで疲れ切っていたので万引きをしてしまったそうです。
もちろんお金がなかったわけではありません。
お金は十分すぎるくらい持っていたのです。
それでは何故万引きしたのでしょう。
その人は、取り調べでいいました。
「万引きをしようと店にはいる。
そして、店の中を十分にみる。それは商品を見るのではなく、
防犯カメラがどこにあるかを調べ、店員がどこにいるかをじっくり観察し
どのあたりの商品を万引きするか時間をかけて下調べをする。
信じられないことですが、この緊張するひとときが最高の至福のときだ。」
と言うのです。
そして、商品を包装してあるパッケージからだして
(そのパッケージのまま店外に出るとブザーがなったりするからだそうです。)
そして、そのまま持ち出すのではなく、用心して別の商品置き場に置くとのこと
そして店を出てしばらくしてからまた店に入り、
その袋に入っていない商品をその売り場にある
パンフレットなどの間にはさんで店外に持ち出すそうです。
念入りな計画です。さすがバリバリのエリートが綿密に立てた作戦のようです。
この間のスリルと達成感がなんとも言えない快感で、
一度味わったら辞めれなかったと告白したそうです。
このエリートも結局先の寂しいおじいさんと同じではないでしょうか。
しかし、現代の多くの人たちは、
お金があるから幸せと言えるのでしょうか?
大きな家に住んで、大きな会社に勤め、いっぱい給料をもらっているから
幸せなのでしょうか。
そのような立場だったら平安で満足できるのでしょか?
そうじゃないから、万引きをしてストレスを解消したり、
もっと満足できるものを求めるたのです。
なぜなら、このおじいさんもエリートも
人にかまってほしい、寂しさをまぎらわしたい、
今に満足できない満たされないものがあったのです。
結局、愛されたい、そして自分のことを愛してくれている誰がいる
という確かな実感が欲しかったのではないでしょうか。
しかし、悲しいことです。
なぜなら、このおじいさんもエリートも、
いやその他の全ての人も
『だれからも愛されていない』のではなく、
このおじいさんを愛している神様がおられるからです。
この地上の人々すべてがこのおじいさんを相手にしなくても、
すべての人々がこのおじいさんを見捨てても、
このおじいさんを愛しておられる神様がおられるからです。
子供から見捨てられた父親。見捨てられて当然と悲しくつぶやいた
以前、教会に電話があり、すぐに来て欲しい、聖書の話しが聞きたい。
ということだったので、すぐに訪問しました。
でも、困っていることを話されるだけで、
聖書の話しは全然聞いてくださいませんでした。
その方は、心臓の病気で少し歩くと、
呼吸がしづらくなって休憩しなければならないそうで、
少しの距離を移動するのも大変とのことでした。
毎日、食べるものもあまりないのでいつどうなるかわからないと訴えられました。
子どもさん達がいると言われていたので、子どもさん達はどうされていますかと聞くと、
見捨てられましたと答えました。
どういうことかというと、
この方が父親らしいことをなにひとつせず、子供達に辛い思いばかりさせ、
迷惑ばかりかけてきたそうです。
だから、自分は息子達から見捨てられて当然で、仕方がないと思うと寂しそうに言われました。
その時思いました。
見捨てられるということが、どんなに惨めで、悲しいことかを。
愛の大きさはどのようにして測ることができる?
愛の大きさはどのようにして知ることができるのでしょう。
愛の大きさは、そのために払われる犠牲の大きさによって知ることができます。
愛している愛していると言いながら、その相手のために犠牲を払うことを嫌がるなら、
そのような愛は自分中心的な愛であって真実な愛とはいえないでしょう。
わたしは、愛している人のために自分が一番大切にしているものを犠牲にすることができるでしょうか?
情けないことですが、即座に『はい!』といえません。
なぜでしょう。
なぜなら・・・
自分が一番愛しているのは自分だからです。
でも、神様は、私たちひとりひとりのために、一番大切なものを犠牲にしてくださったのです。
これ以上払うことのできない犠牲をはらってくださったのです。
ヨハネの福音書 3章16節 (聖書)
● ヨハネの福音書 3章16節 (聖書)
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、 ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」