聖書通読第2週第5日【ショート版】イサクを捧げる日、神は備えていた(創22–23/マタ10)

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イサクを捧げる日、神は備えていた(創22–23/マタ10)

創世記22〜23章とマタイ10章は、読む前から少し身構える内容かもしれません。
でも、この日こそ通読の醍醐味が光ります。
「試される」「失う」「遣わされる」――人生の重たいテーマが並ぶからこそ、神がどれほど先回りして“備えておられるか”が、くっきり見えてくるのです。


創世記22章 神は“失わせる”ためでなく“備える”ために導かれる

アブラハムの試練は、神の残酷さではなく信仰の土台づくり

イサクを献げよ、という命令は衝撃的です。
けれど聖書が描くのは、「神が喜んで奪う」姿ではありません。むしろ、アブラハムの心から“最後のより頼み”を取り除き、神ご自身に立たせる深い導きです。

たとえるなら、飛行機の離陸前に受ける安全点検のようなものです。点検は怖く感じても、目的は落とすためではなく、無事に飛ばすため。神はアブラハムを壊すのではなく、祝福の道を確かなものに整えておられます。

「主の山には備えがある」――神の救いは常に“一歩先”

クライマックスで示されるのは、神の備えです。
アブラハムが自力で奇跡を作ったのではなく、神がすでに用意しておられた。
信仰とは、空中で綱渡りをすることではありません。見えないところで張られている“神のロープ”を信じて一歩踏み出すことです。

そしてここに、十字架の影が差します。
父なる神が御子を与え、救いの備えを完成させたのが福音の中心です。創22は、その予告編のように胸に迫ります。


創世記23章 別れの中でも、約束は地面に“刻まれる”

サラの死と墓地の購入は、信仰が現実に根を下ろす瞬間

創23は葬りの章です。
しかし、ここでアブラハムは約束の地に“確かな一歩”を残します。墓地を購入することは、ただの不動産取引ではありません。「神の約束は、夢物語で終わらない」という宣言です。

たとえるなら、旅の途中で地図に印を付けるようなものです。
涙で視界がにじむ日でも、神の約束は消えない。別れの場面にこそ、神の真実が深く刻まれます。


マタイ10章 恐れが使命に変わる――遣わされる弟子の道

主は「完全な人」ではなく「従う人」を用いられる

マタイ10章で、イエスは弟子たちを遣わされます。
迫害や拒絶の現実も語られ、甘い話ではありません。けれど同時に、主は「恐れるな」と繰り返し励まされます。

たとえるなら、初めて自転車に乗る子どもに、親が背中を支えながら「大丈夫、行ける」と声をかけるように。主は弟子を放り出さず、共に歩む方として遣わされます。

旧約の“備え”が、新約の“派遣”へつながる

創22の「主が備える」は、マタ10の「主が遣わす」へつながります。
神が備えてくださった救い(十字架と復活)があるからこそ、私たちは恐れの中でも使命へ踏み出せる。
通読は、点が線になる喜びです。試練、別れ、派遣――バラバラに見える出来事が、神の救いの計画の中で一本の道になります。


今日の通読のコツ

1つだけでいいので、心に残った言葉をメモしてください。
「主の山には備えがある」か、「恐れるな」か。
その一語が、今日のあなたの歩みを支える“合図”になります。

通読は、毎日が小さな一歩です。
でも、その積み重ねが、神の備えと導きの確かさを、あなたの人生の中で“体験”に変えていきます。

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