
聖書通読 第8週3日目レビ記3章/マルコ10章
レビ記3章(和解のいけにえ)
解説
レビ記3章は「和解のいけにえ(交わりのいけにえ)」の章です。
1章は全焼、2章は穀物でしたが、3章は「神様と平和の交わりに生きる」ことが中心になります。ここでささげられるのは牛、羊、やぎなどで、ささげる人は手を置き、祭司が血を祭壇に注ぎます。血はいのちを表し、いのちは神のものだという事実を思い出させます。私たちは神の前に、軽い気持ちで近づくのではなく、神の聖さを敬って近づくのです。
また、脂肪の部分は「最も良い部分」として主にささげるよう命じられています。神様は不足しているから求めるのではなく、私たちの心の中心がどこにあるかを整えたいのです。さらに血や脂肪を食べない定めは、礼拝を日常の都合に合わせて薄めないこと、いのちを軽く扱わないことを教えます。
神様が望んでおられるのは、
形だけの礼拝ではなく「主との交わりを喜ぶ心」です。今日の私への適用はこうです。
私は神様との関係を、義務としてではなく平和と感謝として味わっているでしょうか。主にささげるものが余りものになっていないでしょうか。
今日一つ、主に「最上のもの」を渡してみましょう。時間の最初の数分でも、祈りの一言でも、「主よ、あなたと共に歩みたいです」と心を向けることが、和解のいけにえの精神になります。
マルコ10章
解説
マルコ10章は、主イエスが十字架へ向かわれる途中で「神の国に生きる姿」を弟子たちに教えられる章です。結婚の教え、子どもたちを祝福する場面、金持ちの青年、仕える者の道、バルティマイの癒やしが続きます。主は、人間の都合で神の心をねじ曲げないようにし、神の国が「受け取る者」に開かれていると示されます。
弟子たちが子どもを遠ざけようとした時、イエスははっきり止め、「神の国はこのような者のもの」と語られました。自分の力ではなく、主により頼む信仰が大切なのです。
金持ちの青年は熱心でしたが、最後に握っていたものを手放せませんでした。イエスは彼を責める前に「慈しんで」見つめられます。
救いは努力の報酬ではなく、神の恵みであり、「人にはできないが神にはできる」と主は言われます。
さらに弟子たちが偉さを求めると、主は「仕える者になりなさい」と教え、ご自身こそ「多くの人のための贖いの代価」として命を与えると語られました。ここに十字架の中心があります。
神様が望んでおられるのは、
心の中心を主に明け渡すことです。今日の私への適用はこうです。
私は何を握りしめ、主より優先しているでしょうか。安心のための執着、評価、こだわり、計画かもしれません。主は「手放して私に従いなさい」と招かれます。
また私は、受け取る者として主の恵みに頼っているでしょうか。さらに、偉く見られることより、仕える喜びを選べているでしょうか。今日一つ、主の前で「助けてください」と正直に言い、主の道へ向き直りましょう。
