【 ルカ14:16-24 その➁ 】 恵みは“ふさわしい人”の報酬ではなく、“来る人”への贈り物

 恵みは“ふさわしい人”の報酬ではなく、“来る人”への贈り物(ルカ14:16-24)

16 するとイエスはこう言われた。
「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。 17 宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。』と言わせた。 18 ところが、みな同じように断わり始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断わりさせていただきます。』 19 もうひとりはこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断わりさせていただきます。』 20 また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』 21 しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえをここに連れて来なさい。』 22 しもべは言った。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』 23 主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。 24 言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。』」
このたとえには、私たちの「思い込み」をひっくり返す場面があります。
最初に招かれた人たちが断り、次に招かれた人たち――町の貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人、そして道や垣根のところにいる人たち――が宴会に入っていきます。
ここで見えてくるのは、恵みの本質です
恵みは“ふさわしい人への報酬”ではありません。“来る人への贈り物”です。
私たちはつい、「私はまだふさわしくない」「もっと整ってから」「もっと良い人になってから」と思います。
しかし主は、その順番で救いを語りません。
救いは、整った者の表彰ではなく、必要を知る者のいのちです。
最初に招かれた人たちは、外から見れば「招きに相応しそう」に見えます。立場もあり、生活も整い、理由もそれらしく語れます。しかし、その整いがかえって心を閉じることがあります。
自分で人生を回せていると感じるとき、人は「恵み」を必要としないと思うからです。
必要としないと思うものは、受け取れません。
反対に、後から招かれた人たちは、社会的には弱く、立場もなく、頼れるものが少ない人々です。
しかし彼らは招きを「恵み」として受け取りやすいのです。
なぜなら、受け取るしかないからです。
そこに、へりくだりの姿があります。救いは、強い人の誇りではなく、弱い人の希望なのです。
ここで誤解してはいけないのは、「貧しい人や弱い人なら自動的に救われる」という意味ではないことです。
そうではありません。
鍵は“来ること”です。
招きに応答することです。
神の国は、身分や功績で区切られず、招きへの応答で開かれます。
私たちの中には二つの危険があります。
一つは「私はふさわしいから入れる」という思い上がりです
もう一つは「私はふさわしくないから入れない」という絶望です
どちらも、恵みから目をそらします。
恵みは“ふさわしさ”を基準にしないからです。恵みは、「必要とする者に与えられる神の贈り物」です。
だから福音はこう言います。
「主よ、私はふさわしくありません。けれど、あなたの招きは真実です。あなたの憐れみによって、入れてください。」
これが信仰の姿勢です。
自分を飾らず、言い訳を積まず、ただ主の言葉を信じて近づくことです
そしてここに、イエス・キリストの十字架の光が見えます。
私たちが“ふさわしくなるため”に十字架があるのではありません。
ふさわしくない私たちを、主が受け入れるために十字架があるのです。
復活は、恵みが本物であることの保証です
だから私たちは、胸を張ってではなく、手を差し出して受け取る者として前に出ればよいのです。
最後に問いかけます。
あなたは今、恵みを「報酬」として考えていないでしょうか
また逆に、恵みを「自分には関係ない」と遠ざけていないでしょうか
主が求めておられるのは、
“ふさわしさの証明”ではなく、招きに応答する心です。
あなたは今日、恵みを受け取るほうへ一歩近づけるでしょうか。

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