
こんにちは。
前回ザアカイについて、伝道メッセージを書きました。
そして今回は、この前回と同じ聖書箇所からクリスチャン向けにメッセージを作成しました。
クリスチャン(わたしも含めて)の方に再確認をお願いします。
救いの恵みに慣れてしまいそうになる私たちの日常を、
ザアカイのような「爆発的な喜び」で更新し続けるためのメッセージです。
この記事の目次
恵みに生かされる喜び ―― 主との出会いを「今日」に更新し続ける
クリスチャンとして歩む中で、私たちは時として「救い」という驚くべき出来事に慣れてしまうことがあります。
「神様は愛してくださるものだ」「罪は赦されるものだ」という知識が当たり前になり、最初の一歩を踏み出した時の、あの震えるような感動がどこか遠くへ行ってしまってはないでしょうか。
ルカの福音書19章に登場するザアカイの姿は、私たちに「恵みに圧倒されるとはどういうことか」を、鮮烈な光を持って再確認させてくれます。
神様の恵みとは、愛される価値なき者を愛し、救われる資格のなきものを救いへ導いて下さることです。
1. 「主を家に迎える」ということの本当の意味
イエス様を家に招き入れたザアカイは、ただ食事を共にして楽しい時間を過ごしたのではありません。
彼は、完全な光であるイエス様に照らされたとき、本当の罪深い自分自身が照らされ愕然と自分自身の罪に打ちのめされました。
そして彼は、自分自身の全存在を支配していた「主(あるじ)」を、自分自身からイエス様へと完全に入れ替えました。
向きを変えるという本当の悔い改めをしました。
かつて彼の人生を支配していたのは、紛れもなく「お金」でした。
お金があれば守られる、お金があれば孤独を埋められる。そう信じて執着していたものが、イエス様という真の命の主と出会った瞬間、その座を明け渡したのです。
私たちはどうでしょうか。日曜日の礼拝で主を称えていても、
平日の生活の「家(プライベートや仕事)」の中では、依然として自分自身や、将来への不安、あるいは他人の評価を「主」の座に座らせてはいないでしょうか。
ザアカイが真っ先に財布のお金に気づいたのも、彼にとって一番重い「偶像」がそこにあったからです。
主を我が家に迎えるということは、私の最も大切な部分(聖域)の鍵を、主にお渡しするということなのです。
2. 「四倍返し」の背後にある、十字架の衝撃と圧倒的な「恵み」
ザアカイが「財産の半分を施し、だまし取ったものは四倍にして返す」と言ったとき、彼は計算機を叩いてはいませんでした。
もし彼が「罪を償うために最低限必要な額」を計算していたなら、そこまでの宣言はしなかったはずです。
彼を突き動かしたのは、「身代わりの愛」への圧倒的な驚きと自分のような者が受け取ってしまった「恵み」の巨大さです。
本来、ザアカイは同胞を苦しめ、神様を裏切ってきた「罪人」でした。
彼には、神様から愛される価値など微塵もなく、救いを受け取る資格など全くなき者でした。しかし、イエス様は彼を見上げ、「ザアカイ」と名を呼び、彼の家に入られました。
そして、その聖い主が、他ならぬ「愛される価値なきザアカイ」のために、エルサレムの十字架へ向かい、その罪の報いをすべて身代わりに背負って死んでくださるというのです。
これこそが、神様の真実な愛であり、資格のない者に注がれる一方的な「恵み」です。
「えっ、そんなことがあっていいのか? わたしのような者のために、この聖いお方が命を捨ててくださるというのか!」
この「とび上がるほどの喜び」こそが、クリスチャン行動の力の源泉です。「~しなければならない」という義務感ではなく、「これほどまでの恵みを受けたわたしが、どうして以前と同じように自分勝手に生きられようか」という溢れ出る喜びと感謝の応答です。それこそが、ザアカイの四倍返しの正体だったのです。
3. 木の上にいる「現代のザアカイ」に、主の眼差しを
ルカ19章には、ザアカイとは対照的な「群衆」が登場します。
彼らはイエス様がザアカイの家に入るのを見て、「あんな罪人の家に入るなんて」とつぶやきました。
私たちは、いつの間にかこの「つぶやく群衆」の側に立ってはいないでしょうか。
自分たちは正しく歩んでいると思っている自負が、誰かを見下し、裁く心を作っていないでしょうか。
主イエスは、人々が指をさして避ける「木の上の孤独な魂」のザアカイを、真実な愛と恵みの眼差しで見上げられました。
私たちに託されている使命は、この「主の眼差し」をこの世に映し出すことです。
まだ主を知らず、物質的な満たしの中で魂を枯らせている人々、心の穴を何とか埋めようとして迷走している人々。
彼らを裁きの目ではなく、「主が命をかけて捜しておられる、大切な一人」として見る。
そこから、私たちの新しい証しが始まります。
4. 救いを「今日」という瞬間に更新する
イエス様は言われました。
「きょう、救いがこの家に来ました」。 救いは、過去の出来事であると同時に、常に「今日」の出来事そのものです。
ザアカイがその日、主と出会って人生の向きを180度変えたように、私たちも毎朝、自分の名を呼ぶ主の声を聴く必要があります。
「さあ、降りてきなさい。今日もわたしは、あなたの心の家に泊まり続けたいのだから」と。
かつて救われた時の喜びを、知識の箱にしまい込まず、今一度、十字架の前に立ち返りましょう。
私のような価値なき者の罪のために死に、よみがえられた主の愛を、新鮮な驚きをもって受け取り直しましょう。
そのとき、私たちの日常は義務感から解放され、ザアカイが味わった「とび上がるほどの喜び」へと更新されます。
その溢れる喜びこそが、乾いたこの世に神様の福音を映し出す、最も力強い光となるのです。

