絶望の終わり、希望の始まり ——「ただ信ぜよ」に秘められた復活の力

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絶望の終わり、希望の始まり ——「ただ信ぜよ」に秘められた復活の力

21 イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。22 すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足にもとにひれ伏し、23 いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群集がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
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35 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」36 イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」37 そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。38 彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、39 中に入って、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へ入って行かれた。41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味である。)42 すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。(マルコの福音書 5章)

1. 「手遅れ」という名の絶望の中で

私たちは人生の中で、何度「もう手遅れだ」という言葉を飲み込んできたでしょうか。 聖書の中に、その究極の絶望に直面した一人の父親が登場します。彼の名はヤイロ。町の有力者であり、人々に尊敬される会堂司(チャペルの責任者のような立場)でした。しかし、地位も名誉も、たった一人の愛する娘が死の淵に瀕しているときには何の役にも立ちません。

彼はなりふり構わずイエス様の足元にひれ伏し、「娘を助けてください」と泣きつきました。イエス様は彼と共に家へと向かいます。ところが、その途中で残酷な知らせが届くのです。

「お嬢さんは亡くなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」(マルコ 5:35)

この言葉は、ヤイロの心に冷たいナイフのように突き刺さったはずです。「もう終わった。奇跡を期待する時間は過ぎ去った。これ以上イエス様に頼んでも無駄だ。諦めて葬儀の準備をしなさい」。これが、この世が突きつける「現実」という名の答えです。

2. 世界を震わせた一言:「恐れることはない。ただ信じなさい」

周囲の人々が同情し、あるいは諦める中で、イエス様だけはヤイロの目を見つめてこう言われました。

「恐れることはない。ただ信じなさい。」(マルコ 5:36)

この言葉は、ギリシャ語のニュアンスでは「恐れ続けるのをやめなさい。信じ続けなさい」という意味が含まれています。 目の前には「死」という動かしがたい事実があります。しかしイエス様は、その事実よりもさらに大きな「真理」を見つめるようにとヤイロを促したのです。

ここで大切なのは、イエス様が「頑張って信じなさい」と言われたのではない、ということです。 「ただ(Only)」信じなさい。 これは、「あなたの努力や、あなたの善行や、あなたの力は、1パーセントも必要ない。ただ、わたしが誰であるかを信頼してわたしにすべてを任せなさい」という招待状だったのです。


3. 「ただ信じる」とはどういうことか?(例え:飛行機の操縦席)

「信じるだけでいいなんて、そんなに簡単なことですか?」と、私たちは思うかもしれません。しかし、実は「ただ信じる」ことこそが、人間にとって最も難しく、かつ最もパワフルな決断です。

一つ例えを考えてみましょう。あなたが飛行機に乗っているとき、激しい乱気流に巻き込まれたとします。機体は大きく揺れ、窓の外には稲光が見えます。恐怖でパニックになりそうなとき、あなたにできることは何でしょうか? 客席で必死に機体を支えるふりをすることでしょうか? それとも、操縦席に乱入して操縦桿を奪い取ることでしょうか?

いいえ、あなたにできる最善の、そして唯一のことは、「操縦士(パイロット)が誰であるかを知り、その腕を信頼して座席に座り続けること」です。 どれほど揺れていても、パイロットが目的地を知っており、嵐を抜ける技術を持っていると信じるなら、心には平安が生まれます。しかし、残念ながら信頼できるプロですが、不完全な人間です。しかし、神は完全です。

信仰も同じです。私たちの人生という機体が、病気や経済破綻、人間関係の崩壊という嵐で揺れ動くとき、イエス様は「操縦桿をわたしに渡しなさい。あなたはただ、わたしを信頼して座っていなさい」と言われるのです。


4. 聖歌424番が教える「福音の核心」

冒頭で触れた聖歌424番「ただ信ぜよ」の歌詞には、このヤイロの物語と重なる深い福音のメッセージが込められています。

「ただ信ぜよ、ただ信ぜよ。不可能なき主を、ただ信ぜよ。」

この歌が世界中で愛されている理由は、これが単なるポジティブ・シンキング(前向きな思考)ではないからです。この歌が指し示しているのは、「十字架の救い」と「復活の勝利」です。

十字架:私たちの「不可能」を引き受けられた主

ヤイロの娘の死は、私たち人類が抱える「罪の結果としての死」の象徴でもあります。私たちは自分の力で、罪の汚れを落とすことも、死の恐怖に打ち勝つこともできません。 しかし、イエス・キリストは十字架の上で、私たちの身代わりに死なれました。私たちの絶望、私たちの呪い、私たちのすべての「不可能」をその身に引き受けられたのです。

復活:死を「眠り」に変えられた主

ヤイロの家に着いたイエス様は、泣きわめく人々に向かって「子供は死んだのではない。眠っているのだ」と言われました。人々は嘲笑いました。しかし、イエス様が「タリタ、クミ(娘よ、起きなさい)」と言われると、死んでいたはずの少女は起き上がりました。

イエス様にとって、死は「終わり」ではなく、呼びかければ目を覚ます「眠り」に過ぎません。なぜなら、イエス様ご自身が三日目に死を打ち破って復活された、**「いのちの主」**だからです。

5. スミス・ウィグルスワースのエピソード

この「ただ信ぜよ」を人生のモットーとしたイギリスの伝道者、スミス・ウィグルスワースのエピソードを紹介します。彼は、かつてひどい気性の荒い配管工でしたが、聖霊に満たされ、この歌を歌いながら多く人たちに福音を延べ伝えました。

彼は、ある時、「恐れを一切受け入れない。恐れを拒否すると決心しました。(恐れは信仰の反対と考えた)」「信じるか、恐れるか、どちらかしかないと決めた。」信仰とは、結果を見る前に信じることと定義した。

6. あなたへのメッセージ:今、何を恐れていますか?

今、あなたの人生に「もう手遅れだ」と思えるような状況はありますか? 「あの人との関係はもう修復できない」「自分の性格は一生変わらない」「この病気は治らない」「過去の罪は消えない」。

サタン(悪魔)はいつも、ヤイロに知らせを届けた人々のように、あなたの耳元で囁きます。「もう無駄だ。あきらめろ。先生(神様)を煩わすのはやめなさい」。

しかし、今、主イエスがあなたのすぐそばに立ち、あなたの目を見つめて言われます。

「恐れることはない。ただ信じなさい。わたしがあなたと共にいる。わたしは、死を命に変えることができる者だ。」

福音とは「あなたが何をするか」ではなく、「神があなたのために何をしてくださったか」を信じることです。 あなたが立派な人間だから助かるのではありません。あなたが強く信じる力を持っているから救われるのでもありません。 ただ、あなたを愛して十字架にかかられたイエス・キリストというお方が「真実である」と認め、その方の手に、あなたの人生という機体の操縦桿を委ねる。それが「ただ信じる」ということです。

結び

ヤイロの娘が目覚めたとき、そこには新しい朝が始まりました。 あなたの人生にも、主は新しい朝をもたらすことができます。 「不可能なき主」は、今日もあなたに語りかけておられます。

「恐れることはない。ただ信じなさい。」

この御言葉を受け取るとき、あなたの絶望は終わり神の栄光が現れる希望の物語が始まります。

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