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絶対に沈まないと言われていた豪華客船が・・・
1912年4月14日の夜11時40分に、歴史上最も凄まじい海上の大事故が起こリました。
当時これまでにない最も大きな豪華客船のタイタニック号は、ニューファンドランドの沖からほぼ800マイルの海上に位置した氷山に激突したのです。
2340名の人達がその船に乗船していました。
705人の人達が助かりましたが、1635人はその船と共に沈み死んでしまったのです。
それはその客船の処女航海であり、世界中から評判を浴び、そして世界で最も大きく最も豪華であっただけでなく、それは全ての海上船舶のうち最も安全な『沈まない船』であったはずなのです。
タイタニック号の沈没を通して私たちは数多くのことを学ぶことができます。
①多くの人は、自分の人生という豪華客船は、絶対大丈夫沈まないというおごり高ぶった自分勝手な信念をもっているのです。
どんなに豪華に地位や名声や財産というもので着飾っても、やがて終わりの時が来るという事実に変わりはありません。それを認めなくても終わりの時はくるのです。
②どのような豪華な客船という人生であってもやがて死という沈む時がくるということを認めず、そのための備えをしていないのです。
それはゴールがわからないからでありゴールを認めようとしないからです。そのゴールとは 『 死 』 であり、『神様にお会いする時』です。あなたは神様に会う備えができていますか。
③一番大切な人生のゴールについての答えを出すことを先延ばしにしている。
人は、自分が分からないことや自分にとって面倒と思うことは「明日考えよう・・・」と先延ばししてしまうものです。分からないことはわかる方に聞けばいいのです。「人のゴールについて」「死について」全てを知っておられる神様に素直になって聞けばいいのです。神様の答えは『神様の御言葉である聖書』にあります。
④そして神様の備えてくださった救い(救命ボート)を受け入れない。
人は、「神様を神様と認めない罪」「神様を無視し、歯向かう罪」そして「神様の備えられた救いを受け入れない罪」これらの罪を認めないがゆえに神様の備えてくださった救い(救命ボート)を受け入れないのです。
氷点下二度の海に投げ出され、その殆どの人が低体温症で亡くなっているのです。その中にスコットランドのジョン・ハーパー牧師(39歳)がいました。
タイタニック号の沈没事故に関しては、映画などでも有名になっていますが、そのなかで多くのクリスチャンが活躍したことについてはあまり知られていません。
タイタニック号のヒーローと呼ばれた牧師とクリスチャン達の生き様は?
『ジョン・ハーバーというスコットランドの牧師』が、我さきにと救命ボートに乗り込もうとしている人たちに対して、こう叫んだそうです。
子どもや女性をさきに載せて下さい。そして、次に、まだイエスキリストを信じていない救われていない男性が乗って下さいと叫んだそうです。
すなわちイエスキリストを信じて救われているクリスチャンは、まだイエスキリストを信じていない男性に救命ボートを先に譲ってください・・・という意味です。
それを聞いて多くのクリスチャンの男性は聞き従ったそうです。
すごいすばらしい覚悟だと思います。それで、クリスチャンの男性たちは
救命ボートの世話や救命具をつける手伝いをしたそうです。
吹奏楽団は、最後まで讃美歌「主よみもとに近づかん」を演奏し続けたのです。
ハーバー牧師は一人ぼっちになる6歳の娘ナナを神様に委ね託した。
39歳のハーバー牧師は、特別伝道集会に行くためにタイタニック号に乗っていました。6歳のナナという娘と一緒でした。ナナのお母さんは3年前に病気で死んでいました。ですからナナにとってはお父さんしかいませんでした。
しかしハーバー牧師は、自分の6歳のナナを救命ボートにのせてから、自分もそのボートに乗ることができたのに自分は乗りませんでした。
そして泣きじゃくる娘のナナにこう言ったそうです。 「また会えるよ!!天国で!!!」と。
沈みつつあったタイタニック号での特別伝道集会
そこからハーバー牧師にとっての特別伝道集会が始まりました。
多くの人にイエスキリストを信じなさいと福音を語りました。イエスキリストの十字架と復活についていろいろな人に語りかけたそうです。
沈没した後も、彼は海上を漂う人々の間を泳ぎ回り、「あなたはイエスキリストを信じて救われていますか。」と問いかけ、まだ信じていない人がいたら「主イエスを信じなさい。そうすれば救われます。」と福音短くわかりやすく語り続けたそうです。
そして、救命具を付けていない青年のところにきて、その青年がイエスキリストを信じていないということを知り、彼は、救命具をはずしてその救命具を青年に渡しました。
そして、「必ずキリスト教会に行ってイエスキリストを信じて下さい。」と叫び、「心配しないでください。わたしは、海に沈むのではなく、天に昇るのだから・・・」といいながら、波に流されました。
しかし、ハーバー牧師は自力で泳ぎながらまたその青年のところに来たそうです。一度会ったことすら分からないようなもうろうとした状態でまたもう一度大きな声で叫びました。
「主イエスキリストを信じなさい。(主イエスキリストがあなたの裁かれる罪の刑罰の身代わりに十字架で死に甦ってくださいました。)そうすれば救われます」と。
その声とともに大きな波にのまれてハーバー牧師は水中に沈んでしまいました。その後、ハーバー牧師を見ることはありませんでした。
その青年は、その後、救助されました。
そして、ハーバー牧師が、なぜ自分を助けるために救命具を渡してくれたのか理解できませんでした。でも、キリスト教会に行ってほしいという彼の願いだけは、どんなことがあっても実行しなければならないと思い、教会に何回も通いました。
そして、ついに彼が救命具を渡して自分のいのちを犠牲にしてまでも、願ったことがわかりました。
青年は、イエスキリストの十字架と復活の福音を信じて救われたのです。
ハーバー牧師がなぜ自分のためにいのちの犠牲を払ってくれたのかを理解しました。そしてそれは、イエスキリストが素晴らしい完全な救いを成し遂げてくださったからであったことを知ったのです。
ハーバー牧師から救命具と福音を託された青年が伝道者に・・・
それから、その青年は、ハーバー牧師から救命具を譲り受けて福音を聞いた最後の最期の者だということをまわりの多くの人に語り始めました。
そして救命具を譲り受けただけでなく、永遠の命と福音宣教も託してもらったといことが『彼の誇り』でした。
のちに、彼もハーバー牧師が願った『十字架と復活の福音だけを語る伝道者』になったそうです。
イエスキリストは、私を愛し私の罪のために、尊きいのちを十字架で捨ててくださったのです。そして葬られ三日目に甦ってくださいました。そのみわざのゆえに、イエスキリストを信じたわたしは永遠のいのちを受けたのですと・・・
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
(ローマ人への手紙6章23節)
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)
「人命救助」よりももっと素晴らしい『永遠のいのちを救う任務』が神様から委ねられています。
しかし、よく考えると、私たちクリスチャンも、人の大切な命を助けることができるのです。
一人の人が、イエスキリストを救い主と信じ受け入れ救われるということは、『永遠の死である滅びるいのち(永遠に神様から切り離され、神様の愛がひとかけらも注がれない永遠に裁かれるいのち)』が『永遠の祝福のいのち(栄光の姿に変えられ神様を喜び褒め称え感謝を持って永遠に神様の愛の交わりの中に憩う祝福の永遠のいのち)』に変えられるということです。
福音は、いのちに関わる永遠の救いを提供することができるのです。
多くの人は、食べる物を求めます。生きるための経済的保証を求めます。悩みや困難からの救いを求めます。確かに、このような苦しみにある人にとって救いとは、まず食べる物を、まずお金、まず健康、まず安定した生活かもしれません。
でも、罪という底なし沼で、もがき苦しみなんとか這い上がろうとしているのが、私たちです。
悪いことだからやめようと思ってもやめられない罪人です。正しいことだから正しいことをしようと思ってもできない罪人です。
底なし沼では、もがけばもがくほどどんどん沈んで行くそうです。そして、ついにいのちが果ててしまうのです。
そのような状態にある人にとっての助けは、食べ物ではありません。お金でもありません。健康や安定した生活でもありません。
その人にとっての救いとは、その底なし沼から助け出されることです。そして、いのちが果ててしまう危険から救われる必要があるのです。罪という底なし沼から助かる方法は一つしかありません。それは罪に影響されない方(罪なき方である神様)に救い出されるしかないのです。
そして、イエスキリストは、いのちがけで助け出してくださったというのではなく、いのちを捨てて私たちの救いを完成してくださった救い主なのです。
復活は、ご自身が神であり救い主であることを証明です。そして
復活は、福音を信じる信仰による救いを証明してくださったのです。
クリスチャンが信仰の確信を持ってどんなことが起こっても疲れ果てないために必要なことは・・・
私たちクリスチャンの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないために必要なことは・・・
私たちクリスチャンはこの世にあっては患難があります。気持ちがくじけてしまうことが多くあります。自分のしていることが無駄ではないかという疑いを生じさせるようなことも多く起こってきます。
しかし、私たちクリスチャンの励ましはどこからくるのでしょうか?
聖書箇所 へブル12:1~3
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。
【私たちクリスチャンの励ましや力はどこからくるのでしょうか。】
私たちを愛し、私たちの罪のために十字架にかかり死んでくださり三日目に甦ってくださったイエス様から来るのです。 それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。
(question)私たちクリスチャンの励ましはどこからくるのでしょうか?
(answer)信仰の確信が、イエスキリストの十字架と復活からもたらされるように、もし、私たちクリスチャンの心が元気を失い、疲れ果てているなら、
イエスキリストの十字架と復活の事実から目をそらさずに、いつも目を離さずにいればいいのです。クリスチャンの感情や思いがどんなに揺らごうが、イエスキリストの十字架と復活の事実はびくともしないのです。
『救いは信仰だけによる』のと同じように、いつも元気で疲れ果てないためにも、
『イエスキリストの十字架と復活の事実(が私のためであったということ)だけを考える』のです。