今日、久しぶりに家を出て妻と買い物に行きました。
しばらく外に出ない間に、世の中は激変して私一人取り残されていました。
近くの激安の小型のスーパーに着くと、いきなりびっくりしました。
いつものように、買い物かごを乗せるカートを取りに行ったら、鎖でつながっていて、自由に使えないようでした。
すると、私が困っているのをみた近くの小学生くらいの女の子が、「おっちゃん。百円入れなあかんで〜」と教えてくれました。
小学生の小さな子に教えられるって、自分も何もできない高齢者になったのかと思い知らされるようでした。
無料のコインローッカーで100円を入れて使用し、使い終わったら百円が返金されるようなシステムのようでした。
でも、スーパーのカートで何故そんな鎖につけて百円がいるんだろうと不思議でした。
でも、あとで家内に聞くと、時々買い物をして清算し、そのままカートをもって帰る人がいるとのことでした。
確かに、ちょうど歩行器代わりに押して帰る人がいるそうです。
例えそうでも、百円出してカートを借りるというのは、サービス業としてどうなのかと疑問に思い、少し不満が残りました。
サービス業は、人と人との交流で成り立つものだと私は思っているので、なんだか冷たいように感じました。
なんだかんだで、買い物をしたあとレジで精算をしてもらったのですが、今までのようにレジの人にお金を渡すのではないのです。
少し、どうしていいのかわからないで困っていたら、側にいた若い女の人が、レジの横で自分でお金を入れて清算するようになったんですよ。と、優しく教えてくれました。
先月に買い物をした時には、今まで通りだったのに、少し来ないうちにすごく変化していたのでびっくりしました。
しかし、これって便利になっているのでしょうか。
便利というのは、お客から便利と喜ばれることだと思うのですが、
この便利というのは、店側にとって効率がよくて都合がいいということかと感じました。
ということは、お客にとっては、不満を感じることがあっても、感謝や満足というものは生まれないようなきがするのですが・・・
もちろん、店側が便利になって効率が上がって商品が驚くほどやすくなるというならいいのだけれど、どうでしょう。
世の中、いろいろ便利になって過ごしやすくなっているようで、人間的なふれあいの優しさがどんどん薄れていきどんどん冷たくなり、高齢者にはわけのわからないシステムにどんどんなっていくんだろうと思いました。
何か、寂しさを覚えました。
確かに少し前に新聞で、中国のスーパーで無人店舗化が進んでいると見たことがあります。
商品をかごに入れてレジにいくと、すぐに買い物の総計が計算できていて、支払いをスマートフォンで済ませなければ店を出ることができないシステムだそうです。
わけのわからない人だったら、店から出ることができずに店に閉じ込められるということも起こってくるかもしれません。
せちがいない世の中になってきました。(いかにも自分が相当の年寄りみたいな表現ですね。)
でも、相当以前にスーパーで安売りが激化して、どんどん安さだけが強調された時代があり、その後、安ければいいという考え方の反対の考え方が出てきました。
すなわち、安さより値打ちのある商品なら少し高くてもいいという志向の変化がありました。
ということは、今後、無人化や機械化がどんどんすすめられ、せちがない人と人でなく人と機械という構図が多くなってきそうです。
しかし、その反対にやはり人と人とのふれあいが大切であるという見直しや、温もりのあるサービスというものがはやってくるような気がします。
どちらにしても、便利さや機能的な面を強調して冷たいサービスが増えてきそうです。
もし、わたしが事業を起こすなら、ぬくもりのある人対人の生きたつながりのあるシステムを作っていきたいです。(わたしが事業を起こすなってことは、全くありえないので考えなくていいのですが・・・)