相当以前に駅構内の書店の片隅に置かれていたので、気になって購入した本です。
ちいさな絵本で『ありがとうの約束』という本で、いつもこころのどこかで気になっている絵本です。
「ありがとう」が口癖になればどんなに幸せなことでしょう。
ありがとうの約束
ある村に「ありがとう」しか いわない おじいさんがいました。
そうじをしながら村びとに「きれいにさせてくれてありがとう」
とれた野菜をおとなりさんにあげて「もらってくれてありがとう」
出かける前にふってきた雨にまで「ふってくれてありがとう」
どんなときにでも「ありがとう」といいます。
りんごの木の下で出会った 若いおじいさんとおばあさんは 「ありがとう」ということばでむすばれました。
どうじに落としたりんごをひろって おたがい「ありがとう」といったのがきっかけ。
「どんなときでも、“ありがとう”といいましょう」
この誓いをわすれないように 庭に一本のりんごの苗木をうえ 「ありがとうの木」となづけました。
「ありがとうの約束」は、ふたりだけのきまり。
感謝するときやしあわせなときだけではありません。
あらしがつづく夜は、「いっしょにいてくれてありがとう」
こどもが泣きやまないときでも「元気でいてくれてありがとう」
ふたりでケンカをしたときは「本音をいってくれてありがとう」
どんなときも「ありがとうの種」を見つけ
おじいさんとおばあさんになるまで
ずっとまもられてきました。
そんなおじいさんのことを、だれもが “ありがとうのおじいさん”とよぶようになりました。
そんなある日、いたずら好きのこどもたちが こんなことをいいだしました。
「“ありがとうのおじいさん”は どんなことをやったら ありがとうをいわないのかなぁ」
ぼうしをとってみたり
用がないのにドアをノックしたり
ホウキをかくしてみたり・・・
しかし、おじいさんは「ありがとう」というだけです。
こどもたちは、どうしてもちがうことをいわせたくなり
「ぜったいに、ありがとうをいわせないでみせる!」と、
もっとひどいことを考えました。
こどもたちは おじいさんが出かけているあいだに
家の庭にかってにはいって
りんごがなっている木のえだを
いくつも折ってしまいました。
そこにおじいさんが かえってきました。
おじいさんは木の前で立ちすくんでいます。
そして、ゆっくりとおじいさんはこどもたちに近づいてきました。
「ありがとう」
そして おじいさんは、てっぺんのほうの折られたえだを見て話しはじめました。
「この木をうえたときに
おばあさんに一番上になったりんごを毎年とってあげると約束してたんだが、
だんだんのぼれなくなってしまった。
おばあさんは亡くなってしまって
約束がはたせずじまいだったけれど
ずっと気になっていたんだ。
だけど、こうやってみんなのおかげでとることができた。
ありがとう」
こどもたちは 下をむいています。
そしてだれかがいいました。
「ごめんなさい」
いいながら泣きだしてしまいました。
おじいさんは、やさしくこういいました。
「ごめんなさいじゃなくて、
“ありがとう“っていってごらん なんだかちょっと笑顔になるだろう?」
「これからは、どんなときも
“ありがとうっていう約束”を おじいさんとしてくれるかな」
そして、おじいさんとこどもたちは
庭に一本のあたらしいりんごの苗木をうえました。
おじいさんとこどもたちは笑顔でいいました。
『ありがとう』
※この作者は、あとがきで
ぼくは自分の娘に「ありがとう」ということばの大切さをつたえたくて、この絵本をつくろうと思いました。
娘が大きくなったときの世界が「ありがとう」であふれていることを願いながら・・・・
この絵本を見ながら、昔に聞いたことを思い出しました。
アメリカから日本に来ていた宣教師が、どんなときでも「感謝します」といっていたそうです。
悲しい時も、つらい時も、困難や問題のある時もです。
そしてある時、日本人の牧師がその宣教師と一緒に銭湯に行った時のことです。
帰りに宣教師が履いていたゲタが見当たらないのです。
だれかが盗んだようです。
日本人の牧師は、宣教師がどのような反応をするか見ていると、宣教師は、「感謝します!」と言ったそうです。
牧師がどうしてゲタがなくなったのに感謝できるのか聞きました。すると、宣教師は、こう答えたそうです。
「だれかゲタを持っていなかった人か、もう履けなくなって困っていた人がゲタを履くことができたのだから感謝なことです。」と。
たとえ起こった出来事に対して感謝できなくても、どのようなことでも、神様に感謝することができるのはクリスチャンの特権です。
絵本の中で、「どんなときでも 『ありがとうの種』を見つけ・・・とありますが、
クリスチャンこそ、どんなときでも『喜びの種・感謝の種』を見つけることができるのです。