昨日の夢は、気持ちの悪い夢で、ケムシがいっぱい出てくる夢でした。
数日前に、外を歩いていて、数匹の毛虫を見たからかもわかりません。その時に、この毛虫たちは何を考えて生きているのだろうとふと思ったからかもわかりません。
もちろん、毛虫たちは何も考えていないのですが、子供の頃に、読んだファーブルの昆虫記のことを思い出しました。
マツノギョウレツケムシの観察の記録でした。
あまり本を読まない私は、あまり興味がなく他の内容は読まなかったし、あまりよく覚えていません。
でも、マツノギョウレツケムシの記録は、小学生の私にとってすごいショッキングな内容で、なぜかよく覚えているのです。
行列を作って場所をさがす習性があるケムシだそうです。
ファーブルはその毛虫を何匹も捕まえて植木鉢の外の周囲をぐるぐるまわらせたのです。
マツノギョウレツケムシは、その名の通り、前のものの後ろにくっついて一つの輪をつくり行列を始めます。
鉢の下には、エサも置いてあるのですが、見向きもせずに、ただ黙々と行列を作って前のケムシの後を追いかけてひたすら歩くのだそうです。
それを続けること8日間、休みなく鉢のまわりをまわり続けたそうです。そして、ついには飢えと疲れで倒れて、下に落ちて死んでしまったそうです。
そして、行列が途絶え、輪が崩れてしまったというのです。
小学生であった私ですが、何の意味もないことをひたすら続けるケムシが哀れで、同じことを繰り返すことがどんなに空しいことかと考えさせられました。
それから、だんだん成長して、中学高校になった時に、自分がしていることに意味があるのか?
あまり意味がないことを続けなければならない空しさを覚えることが多くありました。
その時、不思議とマツノギョウレツケムシのことを思い出していました。
目的や意味を見出すことなく、同じことを繰り返している自分とマツノギョウレツケムシの違いはなんだろうか?と。
そして、青年になったとき、生きる意味、目的をはっきり見出すことができずに生きていることは、マツノギョウレツケムシの生き方と変わらないと思うようになりました。
そして、周りの大人の人たちを見たり聞いたりしていると、同じことの繰り返し、生きる意味や目的がわからなくても、その答えを求めることすらあきらめて、ただ同じことを繰り返している生き方だと思いました。
あの人がこうしているから、この人がこうしていないからと、人を気にして、人と同じことをすることで安心してしまう生き方を多くの人たちがしているのだろうと思いました。
自分は、地位や名声を求め、お金や快楽を求める生き方ではない、人の後ろをついていくことで安心する生き方ではない、本当の生きる目的や意味を知って、真実に生きたいと思うようになりました。
私は、青年の時に、このような思いで、教会に通い、真理を見出すことができて本当に良かったと思います。
もし、ある意味、純粋な思いのある青年のときではなく、この世の、いろいろなことにどっぷりつかって、生きる目的や生きる意味を考えるなってことが、子供じみたことだと思ってしまいやすい壮年になってからでなく、良かったと本当に思います。
同志社大学創設の新島襄は、まだ、クリスチャンになる前に、聖書の一番初めの創世記1章1節を読んで、うれしくなったそうです。
『初めに神が天と地を創造した。』を読んで、
この世界は、偶然にできたのはない。
神様が目的をもって創造されたのだと知って、人間も偶然に進化をしてできたのではなく、神様が創造してくださったのなら、自分自身も目的があるのだということを知って嬉しくなったそうです。
偶然にできたのなら、目的や意味なんかない、
でも、神様が目的をもって意味ある存在として私を造られたのなら、その目的、意味を知りたいと強く思ったそうです。
私たちには、マツノギョウレツケムシのような空しい生き方ではなく、目的をもって創造してくださった神様のために生きるという素晴らしい生き方があるのです。