お孫さんのスイミングクラブのリュックを背負っていたおじいさん・・・

仕事帰りの電車に乗った時、

前のおじいさん(自分も68歳の立派なおじいさんですが・・・)を見ていろいろなことを考えさせられました。

 

というのは、その人は、リュックを背負っていたのですが、よく見ると、

英語で○○スイミングクラブと書いてありました。

 

私の想像ですが、

それは、お孫さんが通っていたスイミングクラブの専用のリュックだと思います。

もう使わなくなったのか、

新しいのを買っていらなくなったかはわからないのですが、

そんなに新しくなく、かっこ良いものでもありません。

こんなことを言ってはいけないのですが、

高価とはいいがたい古びた子供用そのものでした。

普通の大人は恥ずかしがって背負わないでしょう。

 

しかし、その人は、

普段に使うリュックとして使っているのです。

もちろん、ものを入れて背負って運ぶことはできます。

私は、贅沢な人間ではないと自分では思っています。

でも、半額やすごい割引でものを買うのが得意と思っています。

値引き交渉もうまいと自負しています。

 

ですから、贅沢ではないと自分を納得させて半額で買ったから、

普通で買ったら高いものであるが、

安く買ったと自分に言い聞かせながら、

高いものを持っていることの罪悪感を軽減させているかもしれません。

 

とにかく、

私だったら今日の人が背負っていたリュックを使うことはしないと思いますし、

周りの目を気にして使えないと思います。

 

わたしは当たり前かのように、

自分の気に入った少しおしゃれなリュックを買って、いろいろなものを入れて運ぶと思います。

 

実際、今は黒のショルダーバックで赤のラインが入ったすごく気に入っているものを愛用しています。

 

でも、それが当たり前と思っているのは、

少し問題があるのではないかと今日思いました。

 

贅沢だとか、節約をしなければならないとか、

お金を使うときには、あまり自分の物を買わないようにと言おうとしているのではありません。

 

でも、当たり前かのように、必要な物だからお金を出して買ってしまうということに、疑問を覚えました。

用を成すなら、どのようなものでも使えるなら、ある物を使えばいいと思います。

 

私たちは人からどう見られるかを必要以上に気にします。

 

だから、誰にも見られない家の中で一人なら、

ほとんど気にしない格好をしてリラックスできます。

 

しかし周りに人がいるとその人たちの目を気にします。

 

あたかも自分自身の内面のみにくさや薄ぺったさを隠すかのように外面を着飾ります。

本当は、外面より内面の方が重要であるのですが・・・

 

聖書には

 

・・・恐れてはなりません。(からだを殺しても、たましいを殺せない人を恐れてはなりません。)

 

・・・恐れなさい。    (たましいもからだも共に滅ぼすことのできる方【神】を恐れなさい。)

 

※人を恐れたり人の目を気にすることより、

神様の前で悔い改めるべき者として、神を畏れ【おそれ】敬い【うやまい】

なさい。

とあります。

しかし、神様を愛なる方です。

畏れ敬うべき対象ですが、私たちを愛して、私たちの罪を裁く恐ろしい方

であるのですが、神様の愛は完全です。

 

私たちの

裁かれるべき罪の刑罰を全て

イエスキリストが身代わりに

十字架で罰を受けて死んでくださったのです。

 

それがイエスキリストの十字架です。

でも、それで終わりではありません。

イエスキリストは墓に葬られ三日目に死の

力を打ち破って甦【よみがえ】られたのです。

 

そして、ご自分が真の救い主であることを証明されたのです。

 

ですからこのイエスキリストを救い主と信じる者は

永遠のいのちを受け取ることができ、永遠の天国で神様の愛を余す

ところなく受け取ることができるです。ですから、

 

・・・だから恐れることはありません。’(またあなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。完全な愛で愛されているのなら恐れることはありません。

 

わたしは小さい時に、全てをご存知なこころの中すべてもご存知な正しい神様がおられる

なら恐ろしいと思いました。

 

人間は、人を騙すことができます。巧妙な嘘をつきとおすこともできます。

でも、こころの中をご存知な正しいどんな小さな罪も見過ごすことのできない神様がおられるなら、

恐ろしいと子供心に思いました。

でも、わたしの全てをご存知な神様がわたしを愛してくださるなら恐れる必要はありません。

 

そして罪の完全な赦し【ゆるし】を得ているのならなおさらです。

恐れることはありません。

余すところなく完全な愛を受け取り神様の恵といつくしみを味わうことができるからです。

 

わたしは、人が見ることができる外面より、

神様を喜ばせることができる内面を磨いていきたいと願っています。

 

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