クリスチャンとして歩める原動力は?こんな弱い愚かなわたしが・・・

少し前、大阪の病院に内視鏡の検査に行かなければならない時、久しぶりにJRの電車を利用しました。

JRの電車に乗ってすぐに、大きな声が聞こえてきました。

電車から聞こえてきた大きな声とは・・・

何かと耳をすますと、

◯◯駅◯◯時◯◯分時刻 良し‼

信号 良し‼

ドア開閉 良し‼

出発時刻 良し‼ ・・・

という車掌の大きな声でした。

声を出しながら、指をさして行っていた点呼確認でした。

いつもは聞こえてこないのになぜかと見てみると、車内放送や扉の開閉を担当する車掌の新人研修でした。

教官が横について指導をしていました。

新人が一生懸命大きな声を出して点呼確認をしていたのです。

すこし、うるさかったのですが、一生懸命さが伝わってすがすがしさを感じました。

ベテランは、新人ほど大きな声を出さないのですが、やはり指をさしてマニュアルどおりきっちり実施しています。

指をさし、声をだして確認するということは大切なことだと思います。

なぜなら、少しでもミスがあれば大変なことになるからです。

電車の指差し点呼確認のようなクリスチャンの安全確認は?

クリスチャンも日々の歩みにおいて、いつもサタンの惑わしと攻撃いう危険のなかにいます。私たちクリスチャンはどのように安全におれるように確認すべきでしょうか。

身を慎み、目をさましていなさい。

あながたの敵である悪魔が、

ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めて、歩き回っています。

堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。

ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

   (ペテロの手紙第一 5章8節―9節)

 

ですから、自分自身がクリスチャンとして正しく安全に歩めているかどうか、

駅員の点呼確認のようなチェックをするとしたらどのようなものが必要だろうかと

電車にのっている時間は暇だったのでつまらないことを真剣に考えていました。

 

例えば、
礼拝を第一とする 良し‼
日々の神様との交わりにおける聖書の御言葉から栄養を受ける 良し‼
祈りを捧げる 良し‼
喜んで神様に捧げものを捧げる 良し‼
サタンの惑わしへ備える 良し‼

というふうに点呼確認し、指をさして確認することをすればいいのでしょうか?

でも、なにか軍隊的な律法的な雰囲気がします。

クリスチャンが前進するための4本のタイヤより大切なこと

確か、クリスチャンになったときに読んだ本に次のようなことが書いてありました。

『自動車が走るためには4本のタイヤ』が必要です。

それと同じように『クリスチャンとして歩むために必要な4本のタイヤ』が必要です。と書いてありました。

そのクリスチャンに必要な4本のタイヤとして、

①礼拝を守ること。

②聖書を読むこと。

③祈ること。

④集会に出席すること。

だったと思います。

たしかにこの4つのタイヤは、もちろん大切なことです。でも、

車の外側の4本のタイヤより内側のエンジンが大切

車は、どんな素晴らしいタイヤがあってもエンジンがなければ動きません。

そしてまた、ガソリンが供給されなければ動き続けることはできません。

外側ではなく、内側が大切であるということです。

◉新約聖書 コリント人への手紙第一 13章1節〜8節◉
 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、がないなら、何の値うちもありません。
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、がなければ、何の役にも立ちません。
は寛容であり、は親切です。また人をねたみません。は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
は決して絶えることがありません。

 

愛がなければ、意味がない、何の役にも立たない。と宣言されています。

すごい行動の結果が伴っても、愛がなければどうしようもないというのです。

神様のために必死で働いても、教会のためにどのうように素晴らしいことを行ったとしても、
どのような結果をもたらしたとしても、愛がなければ何の意味もなく、何の役にも立たないといわれるのです。

 

例えば、わたしに対して愛がない人にどのようなことをしてもらってもわたしは嬉しくはありません。わたしのことを大切に思ってくれていない人から、どのような高価な物をもらっても嬉しくないと思います。

物や行為より、わたしを喜ばせ満足させるのは、その人のわたしに対する想いであり、わたしへの愛ではないでしょうか。

神様が喜ばれるのは、物や行為ではなく、わたし自身のこころと、わたしがイエスキリストを愛する愛からすべてのことを行うことではないでしょうか。

クリスチャンのとって大切なエンジンとガソリンとは?

先ほどの4本のタイヤですが、外側の4本のタイヤより大切な内側のエンジンとガソリンとは・・・

エンジンイエス様で、

わたしにイエス様の愛が注がれ、そしてわたしがイエス様を愛する愛が、ガソリンとなり

そのエンジンに注がれたガソリンが = すべての原動力となる のではないでしょうか。

ですから、
礼拝を捧げなければならないからではなく、どんなことがあっても、礼拝を捧げたいのです。

イエス様の愛を喜び、イエス様を愛する愛から、もっとその方を知りたくて神様の御言葉を吸収したいのです。

そして、イエス様愛する愛のゆえにもっとイエス様と交わりたい、褒めたたえたいと思い、祈るのです。

そして、もっともっとイエス様の愛を知りたくて集会で深く御言葉を学びたいと強く思うのです。

Must(しなければならない)ではなく I want to(どうしてもしたい)

しなければならないではなく、どうしてもしたいのです。

 

ですから、礼拝を捧げなければならないからではなく、どんなことがあっても、礼拝を捧げたいのです。

イエス様の愛を喜び、イエス様を愛する愛から、もっとその方を知りたくて神様の御言葉を吸収したいのです。

そして、イエス様愛する愛のゆえにもっとイエス様と交わりたい、褒めたたえたいと思い、祈るのです。

そして、もっともっとイエス様の愛を知りたくて集会で深く御言葉を学びたいと強く思うのです。

 

すなわち

イエス様がわたしを愛して十字架で死んでくださったから、
愛される価値なきものを恵みで愛し、十字架と復活を信じる信仰のゆえに永遠のいのちを与えてくださったから、
昨日も今日も永遠に変わらない愛で愛し続けてくださるから••••

 

わたしは、イエス様を愛する愛から、すべてのことを行いたいのです。

 

そして、内側から湧き出て来るイエス様への愛から、すべてのことを喜びとこころからの感謝を持って行えるのです。

これがわたしがクリスチャンとして歩むときの原動力でなければならない

と今日、また、神様から教えられました。

感謝します。

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