スピルバーグ監督の映画プライベートライアンの犠牲と死について
最近、スピルバーグ監督の
プライベートライアンという1998年の映画を
久しぶりに観る機会がありました。
当時は、アカデミー賞11部門にノミネートされたほどの名作です。
スピルバーグ監督の映画プライベートライアン
特に戦争の激しい戦闘シーンが
あまりにもリアルで恐ろしささえ覚えるほどのものでした。

スピルバーグ監督の『プライベートライアン』は実話を元にした映画です。

ライアンは、4人兄弟の末っ子で激しい戦場にいます。
上の兄3人は戦場で戦死してしまいました。
母親の心痛を考えた陸軍長官は、
ライアンをどんなことをしてでも戦場から連れ戻すように命じます。
しかし、ライアンは激戦の戦場の真っ只中にいました。
連れ戻すなんて至難の技でした。
しかし、どうしても呼び戻すために、
最強の部隊が8人で編成され、
たった一人のライアン二等兵を救出するために、
命がけで戦場に出て行きます。
そして、一人、
また一人とライアンの命を守るために最強の兵士が、次々に命を落としていきます。
そして結局、
ライアン二等兵は、待ち焦がれた母親のもとに無事に帰ることができました。
しかし、
彼が生きて帰るために編成された最強の部隊の兵士達はほとんどの人が死んでしまったのです。

8人の兵士達の犠牲のもとで生き延びたライアンが、晩年、死んだ兵士達の墓を訪れて・・・

晩年になったライアンが、
子供や孫たちを連れてライアンを救出した部隊の人たちの墓を訪れます。
そして、涙ながらにこう言います。
「私は、あの犠牲にふさわしい人生を生きてきただろうか
あの人たちの命が失われるのに値する生き方が出来てきただろうか?」と。
そのかたわらで、彼の妻が「ええ、そうよあなたは立派に生きたわ。」と
優しくいたわるシーンがあります。
私は、その場面で、涙を抑えることが難しくなりました。

犠牲の死によって救われたライアンのように、わたしも一人の犠牲によって救われました。

なぜかというと、私を救うために
救い主イエスキリストは尊きいのちを十字架で捨ててくださいました
私の罪のために。
ライアンが、最後にいったように、わたしも、
私は、
イエスキリストが私のために十字架で尊きいのちを捨ててくださった。
その犠牲にふさわしい人生を生きてきただろうか?
と自分に問いかけなければなりません。
そして、
『イエスキリストのいのちの犠牲が払われるに値する生き方が出来てきただろうか?」
と自分にたずねると胸が痛くなってしまいます。

三度イエスキリストを知らないと拒んだペテロに対してイエスキリストは?

わたしは何度、イエスキリストを悲しませ、
何度イエスキリストを裏切ったことでしょう。
イエスキリストにはペテロという弟子がいました。
ペテロは、イエスキリストに
たとえいのちの危険があろうと、わたしはあなたにどこまでもつき従いますと力強く宣言しました。
そのペテロの対して、イエスキリストは言いました。
あなたはにわとりが泣く前に三度わたしを知らないというでしょう・・・と。
事実、イエスキリストが十字架にかけられるために捕まえられた時、
ペテロに対して、
あなたはあのイエスキリストとともにいたでしょうと言われ、
わたしは知らないと言ってしまいます。
そのあと、また
あなたはイエスキリストの弟子でしょうと言われても、
わたしは知らないと言います。
そして、三度めにまた尋ねられると、
捕まえられることを恐れて
わたしは知らない。あんなものとなんの関係もないとすごい拒み方をしてしまうのです。
そして、ちょうどその時にわとりが鳴いたのです。
ペテロも自分自身が情けなくてたまらなかったでしょう。
しかし、そんな臆病なペテロが
あとあと勇敢に喜んで死んでいくのです。
三度うそをついたペテロが、
イエスキリストは救い主だと宣言してよろこんで死を選んだのです。
イエスキリストを知らない、関係がないといえば死なずにすんだのに。
なぜでしょうか。
臆病なペテロが、
いえペテロだけではないのです。
多くのクリスチャン達が、イエスキリストを拒めば
いのちが助かったにもかかわらず死を選んでしんでいったのです。
なぜでしょうか?
それは、イエスキリストは十字架にかかって死んで終わりではなかったからです。
三日後に死の力を討ち滅ぼして
甦(よみが)えられたのです。復活されたのです。
それで、多くの弟子達が死んで終わりでなく永遠のいのちがあることを確信し、
イエスキリストを信じクリスチャンになったのです。
三度イエスキリストを知らないと拒んだペテロに対して、
イエスキリストは、三度、
「あなたはわたしを愛しますか?」とたずねました。
三度裏切ったペテロは、
三度あなたはわたしを愛しますかと言われて非常に心を痛めたことでしょう。
でも、ペテロは、イエスキリストの真実な愛を知っていました。
それは、あなたがなんどわたしを知らないと拒んでも、
わたしは、あなたを愛し続けますという愛の宣言であったことを。

イエスキリストの十字架の犠牲による愛を知った王明道の生き方は?

今から70年くらい前中国に王明道(ワンミンタオ)という伝道者がいました。
彼は、イエスキリストに忠実な信仰者でした。
しかし、共産主義の時代に信仰の弾圧と、
伝道の禁止が厳しく推し進められていました。
そして、王明道も取り締まりを受け牢屋に放り込まれました。
厳しい取り調べと拷問を受けてもうろうとした状態で、
信仰を捨てると言わされてしまいました。
王明道は、もうろうとした状態であったとしても信仰を捨てると言ってしまったことで、
どうしようもなく落ち込んでしまいました。
釈放されたのですが、
自分自身をイエスキリストに対する裏切り者と責めました。
自分自身の弱さや信仰の未熟さを悔やみました。
でも、わかったのです。
裏切る前も、裏切った後も、
イエスキリストの愛は変わらないということを。
イエスキリストはきのうもきょうも同じですという御言葉に励まされました。

それから、必死で聖書の御言葉を心に蓄えました。

聖書の数多くの御言葉を暗唱できるくらいに蓄えました。

そして、街頭に出ていき、伝道を始めたのです。

「わたしはイエスキリストを裏切った者です。
でも、イエスキリストの愛は変わりません。」と話し、
イエスキリストの十字架と復活の福音を語りました。
そして、以前のように逮捕され牢屋に放り込まれました。
でも、以前と違うのです。
王明道はこのために御言葉を蓄えたのです。
牢屋のなかでも、いつでも御言葉が共にあり、
イエスキリストがすぐそばにいてくださいました。
牢屋の中でも賛美があり感謝と喜びがありました。
王明道の生涯は、牢屋の中で過ごした年数がトータルで20数年もあったそうです。
でも、多くのクリスチャンを励ましました。

イエスキリストの十字架の犠牲による福音とは?

神は実にそのひとり子をお与えになったほどに
世をあいされた。
それは御子を信じるものがひとりとして滅びることなく
永遠のいのちを持つためである。  
         聖書:ヨハネの福音書3章16節
わたしは情けないクリスチャンですが、
イエスキリストの犠牲にふさわしい人生を生きたいと心から願います。

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