忘れられたように見える時間の正体
創世記40〜41章は、「神は本当に見ておられるのか」と感じる人の胸に、静かに寄り添う章です。
ヨセフは無実なのに牢にいます。努力しても報われず、正しくあろうとしても誤解される。しかも、出口が見えない。そんな場所で彼は、献酌官長と料理官長の夢を聞き、解き明かします。
ここで印象的なのは、ヨセフの最初の言葉です。
「解き明かしは神のものではありませんか。」
牢の中にいても、彼の視線は「自分の運」や「人の評価」ではなく、「神が今も語り、働かれる」という一点に置かれています。
ところが、夢が成就し、助けてくれるはずの献酌官長が釈放された後、40章の最後はこう終わります。
「献酌官長はヨセフを思い出さず、彼を忘れてしまった。」
この一文が、胸に刺さります。
助かるかもしれない希望が見えたのに、忘れられる。期待が切られる。扉が閉まる。
そして41章1節。
「満二年の後、パロは夢を見た。」
二年。ヨセフはその間、どう過ごしたのでしょう。聖書は細かく描きません。だからこそ私たちは、自分の人生の「神が黙っている二年」を重ねて読むのです。
神様が沈黙している時の「神様の思い」
神がヨセフを忘れているように見える時、神は何をしておられたのでしょう。
聖書全体の流れから言えば、神は決してヨセフを放置していません。むしろ神は「守りながら備えて」おられます。
まず、神は見捨てるためではなく、守るために“待たせる”ことがあります。
もし献酌官長がすぐ動いて、ヨセフが牢から出られたとしても、行き先はどこでしょう。せいぜい「元囚人の一人」として、どこかで細々と暮らす道だったかもしれません。
しかし神は、ヨセフを「王の前」に立たせる計画を持っておられました。
だから神は、彼を小さな出口で終わらせず、より大きな扉が開く時まで守られたのです。
次に、神は“道”より先に“器”を整えられます。
ヨセフは、夢を与えられた少年でした。けれど夢を扱う器が整っていなければ、夢は人を高ぶらせます。
牢はつらい場所です。けれど同時に、余計な飾りが削られる場所でもあります。
人の称賛がない。コネがない。自分の力が通用しない。
そこで残るのは、「神がおられる」という一点です。
そして神は、最高のタイミングで、最高の場所に立たせられます。
41章でパロが夢を見た時、国は大きな危機の入口にいました。
ヨセフが必要とされたのは、その時です。
神の導きは、私たちの「早く」をそのまま叶えることではなく、神の「最善」を開くことです。
神は遅いのではありません。神は着々と神の計画を準備し進めておられるのです。
見捨てられたように思える時の「ヨセフの思い」
では、見捨てられたように思える時、ヨセフはどんな思いだったのでしょう。
正直に言えば、揺れたはずです。
「助けてくれると言ったのに」「神よ、いつまでですか」
そう感じても不思議ではありません。
しかし、41章で呼び出された時のヨセフの姿を見ると、二年間の先が見えない時がすぎても神様を信頼する信仰の中心は守られていたことが分かります。
パロの前で、彼はこう言います。
「(夢の解き明かしは)私ではありません。神が…」
ここには、牢で培われた信仰のぶれない芯があります。
ヨセフは、献酌官長に「私を思い出してほしい」と頼みました。
これは弱さであり、人間らしさです。
信仰者は“超人”ではありません。助けを願います。出口を探します。
でも、期待が外れた時に大切なのは、心の中心がどこに戻るかです。
ヨセフは「人が忘れても、神は忘れない」という場所に、何度も戻ったのです。
そして彼は牢の中で、ただ耐えただけではありません。
目の前の人の痛みを見ました。夢に怯える二人に向き合い、神の言葉を取り次ぎました。
自分が苦しい時に、誰かのために小さな忠実を続けました。
それが、神が次の舞台へ導く“手段”になりました。
神の時が開く瞬間
神の時が来ると、驚くほど一気に動きます。
献酌官長の記憶が起こされ、ヨセフは急に呼び出されます。
牢の人が、王の前に立つ。
その距離は、人の力では飛べません。けれど神は、必要な時に橋を架けます。
そしてヨセフは、夢の解き明かしだけでなく、具体的な備えを提案します。
これもまた、牢の年月が無駄ではなかった証拠です。
忍耐、観察、仕える姿勢、言葉の重み。
神は沈黙の期間に、見えない訓練を続けて下さっていたのです。
今日の私たちへの適用
もし今、あなたが「神に忘れられた気がする」と感じているなら、創世記40〜41章はこう語ります。
忘れられているのは、あなたではありません。
忘れているのは、状況があなたに見せる“錯覚”かもしれません。
今日できることは大きくなくていいのです。
一つ。短い祈りを口にしましょう。
「主よ。あなたは見ておられます。」
「主よ。あなたの時を信じます。」
二つ。小さな忠実を一つ。
目の前の責任を丁寧に。
人に一言やさしく。
自分を整えるために、みことばを一節。
三つ。十字架と復活の光の中で待ちましょう。
私たちの救いは、「早く抜け出すこと」ではなく、主が共にいてくださることです。
十字架は「見捨てられた」と感じる場所にまで主が降りて来られたしるしです。
復活は「沈黙が終わり、神の時が開く」保証です。
忘れられたように感じる夜にも、神はあなたを手放しません。
二年が過ぎても、神の計画は止まりません。
そして神の時が来ると、牢の扉は一瞬で開きます。
その日まで、主の前で、今日の一歩を。
主は見ておられます。
【付録】神様がヨセフのために備えた2年、ヨセフにとって必要だった2年とは?
創世記40章〜41章の間にある「2年」は。
ヨセフにとっては。**忘れられた2年**でした。
でも神さまにとっては。**“準備が完成する2年”**でした。
(根拠の箇所)
創40:23「献酌官長はヨセフのことを思い出さず。彼を忘れた。」
創41:1「二年の終わりに。パロが夢を見た。」
1) 神さまの計画。なぜ「2年」が必要だったのか
① “人の助け”ではなく。“神の時”で引き上げるため
献酌官がすぐ助けてくれたなら。
ヨセフは「献酌官のコネ」で出た人になったかもしれません。
でも神さまは。
ヨセフを。パロの前に。**神の導きとして**立たせます。
だから。
人の都合ではなく。
**王の夢**という“誰も解けない問題”を通して。
ヨセフが必要とされる時を備えました。
② “牢→宮廷”の道を。最短でつなぐため
神さまは遠回りをしているように見えて。
実は。最短ルートを作っていました。
パロの夢。
解けない。
困る。
そこで献酌官が「そういえば…」と思い出す。
この流れは。
ヨセフが“ただ釈放”される以上の結果を生みます。
**釈放ではなく。任命**へ。
**自由ではなく。使命**へ。
③ ヨセフの内側を。王の器に整えるため
王の前に立つ人は。
技術だけでなく。
心の土台が必要です。
焦り。怒り。復讐心。自己憐憫。
それらが王の前で出たら。崩れます。
神さまは2年で。
ヨセフの内側を。
「任されても傲らない器」に整えました。
2) 神さまの思い。2年の間。神はヨセフをどう見ていたか
① 「忘れられても。わたしは忘れない」
人は忘れます。
でも神は忘れません。
ヨセフが牢で。
夜ひとりで。
「神さま。いつまでですか」と祈った時。
神は。沈黙しているようで。
見ておられました。
神の沈黙は。
拒絶ではなく。
**計画の進行中**であることが多いのです。
② 「急がせない。つぶさない。育てる」
神さまは。
ヨセフを“早く出す”ことより。
“正しく立たせる”ことを選ばれました。
早く成功して。心が折れるより。
遅くても。深く根を張る方が。
大きな実を結ぶからです。
③ 「あなたの苦しみは。多くの命を生かす道につながる」
創世記の終盤でヨセフは言います。
「あなたがたは私に悪を図りましたが。神はそれを善のために図られました。多くの民を生かしておくためでした。」(創50:20)
この“多くの命”に向かう道の中に。
あの2年も入っています。
3) その2年間に。ヨセフの内側で起きていたこと
① “待つ信仰”が鍛えられた
待つ時間は。
信仰の筋トレです。
すぐ答えが出ると。
私たちは「神より結果」を愛しやすい。
でも待つと。
神に寄りかかるしかなくなる。
その時。信仰は“芯”を持ちます。
② “小さな忠実”が積み上がった
牢の中でも。
ヨセフは投げやりになりませんでした。
任されたことをやり。
人の話を聞き。
与えられた務めを果たしました。
神さまの昇格は。
たいてい**小さな忠実**の上に乗ります。
③ “人への恨み”を。神への信頼に変える時間だった
献酌官に忘れられた時。
心は荒れます。
「人なんか信じない」
「どうせまた裏切られる」
この方向へ行くと。
心が硬くなります。
でもヨセフは。
やがてパロの前で言います。
「私ではありません。神が…」(創41章の流れ)
人の不誠実が。
ヨセフを神へ押し戻した。
これは大きいです。
4) 私たちへのすすめ。あなたの「2年」に意味がある
「忘れられた」と感じる時こそ。神の“土台工事”が進む
神さまは。
建物の上より。
土台に時間をかけます。
土台は見えません。
だから不安になります。
でも土台ができると。
上は一気に建ちます。
5) 十字架と復活の主が背後に見える
ヨセフは。
苦しみの後に高く上げられ。
多くの人を飢えから救いました。
イエス・キリストも。
十字架の苦しみの後に復活し。
多くの人にいのちを与えられました。
ヨセフの“2年”は。
「神の時が来るまで。主は離さない」
という福音の影です。