死後の世界は怖くないという大学教授の研究の信憑性は?
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臨死体験、幽体離脱、三途の川で呼び戻されたなど・・・。
多くの死の淵から帰還した人の見たものをまとめて研究をしている大学教授が、死後の世界は怖くないと報告している。多くの死んでもおかしくない状態から生き延びた人たちが見たという、死後の世界について語っている。
記事の載っている週刊誌を買うのは勿体無いと思ったので、コンビニでその記事だけ立ち読みしてしまいました。(週刊誌の会社の方、コンビニのお店の方すいません。)

 

それは、すでに死んでいる懐かしい人たちが笑顔であったり、まだ早いから帰りなさいと言う人たちが苦しんでいない状態を見て、死後の世界があることを確信し、死後の世界は怖くないという印象を持って、死に対しての恐れがなくなったという報告である。

人の想像する死後の世界の先入観が、死にそうな時に、夢のように見てしまうという考え方で否定する人もいるだろうがと、この大学教授も反論について語っている。

わたしは、死後の世界を見て帰還した人たちの報告に対してここで反論は、あえてしません。

 

でも、死後の世界を見て帰還したというひとたちは、すべて死にかけたけれど死んではいないということは、重要なことではないでしょうか?

では、わたしは、どうして死後のことを確信して断言することができるのでしょう。死後は、消えてなくなってしまうのではありません。また、死後、すべての人が、楽しい満足できるところに行くのでもありません。死後、人は・・・

 

◉聖書 ヘブル人への手紙 9章27節
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

人間は、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっているのです。
死後は2つの道しかありません。それは、天国か地獄しかありません。地獄と聞くと人は耳をそむけたくなります。しかし、人間は、罪人であるので、罪ゆるされた天国か、罪の裁きの場所である地獄しかないのです。

聖書は、愛なる書であり、警告の書でもあります。それは、救いがあるからです。救いがないならなんと悲しく虚しいことでしょう。救いの道が示されてあるのです。救いがあるから愛なる警告がされているのです。

救いの道を備えるために、神様は自らが人となってこの地上に来てくださり、わたしの受けなければならない罪の裁きを罪なきイエスキリストが、十字架で尊きいのちを捨てて身代わりに受けてくださったのです。

なぜ、このようなことを私が断言できるのか。それは、私が死にかけて死後の世界を見て来たからではありません。わたしは、死にかけてもいません。
しかし、一度完全に死んで(脇腹を槍でさされ、血と水がわかれてでたという死の確証が与えられた)、墓に葬られたイエスキリストが三日目に甦ったのです。

死んでいなくて死後の世界を見たという人の印象と、一度十字架で死に、死を打ち滅ぼしてよ甦られたイエスキリストの証言とどちらに確信の土台をおきますか。

復活については、これから何回かに分けて書きますといいながら、まだ第一回めも書いていません。なんと、いい加減な人間でしょう。

 

死んで息を吹きかえして生き返ったというのではないのです。イエスキリストは、死後、三日めに死を打ち滅ぼして甦られた神であり救い主なのです。
死後のことだけでなく、これから先のことについて私たちは、何も知りえません。しかし、全てを支配されている神様に聴けばいいのです。

神様の警告に耳を傾けてください。
神様のいのちを捨ててまで、あなたに与えようとしている罪の赦しを受け取ってください。
どうか、神様の愛を無駄にしないでください。

 

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