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【聖書通読2週目3日目】不可能が笑いに変わる日。主の訪れと救いの手が届く場所(創18–19/マタ8)
裁きの章は、読む前から少し身構えます。「重い話だな」「怖いな」そう感じるのは自然です。けれど通読の不思議は、怖い章ほど福音の必要がはっきり見えて、十字架と復活の光がいっそう眩しく見えてくることです。
暗い部屋ほど灯りはよく見えます。
今日の箇所はまさに、暗闇の中で主がどれほど確かに“救いの手”を伸ばされるかを立体的に見せてくれます。
今日のテーマは一本の線でつながります。
主が「訪れ」、主が「とりなし」、主が「救い出し」、主が「触れて癒し」、主が「嵐を静め」、主が「鎖を断ち切る」。
その中心に、救い主イエス・キリストがおられます。
【導入】怖い章ほど、救いの入口が見えてくる(創18–19/マタ8)
「裁き」の話は重い。でも通読は“逃げずに光を当てる”
創世記19章はソドムの裁きが出てきます。
正直、気軽に読める場面ではありません。でも、もし聖書が人間の醜さを薄めて都合の良いところだけを書いた本なら、私たちの現実には効きません。
私たちの人生には理不尽や傷やねじれがあり、「こんなの悲しい」という場面が実際にあるからです。
聖書はそこを直視します。ただし直視させて終わりではありません。必ず“救いの手”を一緒に見せます。
だから怖い章は、実は救いの入口なのです。
今日のテーマはこれ
不可能が笑いに変わる(創18)。
裁きの中でも救いの手がある(創19)。
イエスが現場に入り癒し、嵐を静める(マタ8)。
つまり「主が訪れ、手を伸ばし、救い出す」。
この一本の線で、今日の通読は輝きます。
創世記18章 主の訪れ。笑えない現実に「約束」が来る
もてなしの場に主が来られる=日常に神が入ってくる
創世記18章でアブラハムは旅人をもてなします。
暑い日、いつもの生活、いつものテント、いつもの食事の準備。そこに主が来られます。ここが大切です。神は特別な場所だけの神ではありません。日常の玄関にも台所にも、あなたの「いつもの一日」にも入って来られる方です。
たとえるなら、何気ない日にピンポーンとチャイムが鳴って扉を開けたら、ずっと会いたかった人が立っていたようなものです。その瞬間、部屋の空気が変わります。同じ部屋なのに、同じ椅子なのに、同じテーブルなのに、世界が明るくなる。
創世記18章は、そのような「訪れ」の章です。
サラの笑い。「無理だ」と「できる」がぶつかる
主は言われます。「来年、あなたに子が与えられる」。
サラは笑います。でもそれは楽しい笑いではなく、「そんなの無理だよ」という笑いです。
サラの心を想像してください。長く祈り、長く待ち、長く願った。でも叶わなかった。その時間が長いほど期待は薄くなり、「もう遅い」「私には無理」と思ってしまうのです。
けれど主は、サラの笑いを見抜いてこう言われます。「主にとって不可能なことがあるだろうか」。
この言葉は、冬の枝に春が来るような言葉です。冬の枝は枯れて何も起きないように見えますが、春が来ると小さな芽が出ます。昨日までの枝と同じ枝なのに命が始まる。あなたの人生にも「もう無理だ」と思う場所があるかもしれません。
でも今日、創世記18章はあなたの心の冬枝にこう語りかけます。「主に不可能はない」。そしてここにもキリストの影が見えます。
神が不可能を可能にする究極は、十字架の死を通して復活の命を開いたことです。
死が終わりでないと示した復活は、「不可能が可能になる」神の決定打です。
とりなしの祈り。福音の形を先取りする
創世記18章後半で、アブラハムはソドムのためにとりなします。「もし正しい者が…」「どうか滅ぼさないでください」。
これは交渉術ではなく、愛が生む祈りです。裁きの話が近づく時、アブラハムは冷たい傍観者になりません。神の前に立ち、他者のために願います。
ここに新約への橋があります。イエス・キリストは私たちのためにとりなす方です。私たちが自分で弁護できない時、キリストが十字架で身代わりとなり、神の前で救いを成し遂げてくださいました。
アブラハムのとりなしは、その遠い予告編のように見えます。
創世記19章 裁きの現実と、救い出される手
罪が「空気」になる怖さ
創世記19章では、罪が個人の問題を超えて町の空気になっている怖さが描かれます。
たとえるなら、少しの腐敗が食材全体に回るようなものです。最初は小さな臭いでも、放っておくと台所全体に広がります。
罪も同じで、軽く見ているうちに「当たり前」になり、「空気」になり、人の感覚が麻痺します。
聖書は罪の怖さを誇張しません。現実として見せます。だからこそ、救いが必要だと分かります。
それでも主は「外へ出す」救いを用意する
創世記19章の希望は、裁きの中でも主が「外へ出す」救いの手を用意されていることです。ロトはぐずぐずし、決断が遅れます。でも御使いたちはロトの手を取って導き出します。
ここが福音的です。人が強いから救われるのではありません。神の救いの手が強いから救われるのです。
たとえるなら、火事の避難誘導です。煙で前が見えず足がすくんで動けない時、消防士が手をつかんで外へ引き出し、「早く、こっちです」と導く。その手が命を救います。
創世記19章は、神がそういう方だと教えます。そして新約では、その救いの手が人となって来られたイエスです。
主は私たちを罪と死の家から外へ連れ出すために来られました。
振り返るな。執着は足を止める
ロトの妻は振り返りました。
これは単に後ろを見た、というより心の向きの象徴です。救いの道へ進むとき、古い世界への執着は足を止めます。
たとえるなら、引っ越しの時に要らない荷物を全部抱えたまま新しい家へ行こうとするようなものです。重すぎて進めない。でも手放すのは怖い。だから止まってしまう。
福音は「前へ進め」と言うだけでなく、前へ進める力を与えます。それが復活の命です。古い鎖をほどき、新しい歩みを可能にします。
マタイ8章 主イエスは“現場”に入り、触れて回復させる
ツァラアトの人に触れる主=汚れが主を汚さない
マタイ8章で主イエスはツァラアトの人に触れます。
隔離される人、
避けられる人、
誰も近づきたくない人。
その人に主は近づき、触れます。ここが福音です。
汚れが主を汚すのではありません。主の清さが人を清めます。
たとえるなら、暗闇が光を飲み込めないのと同じです。光が入れば暗闇は退きます。イエスが近づけば絶望は退きます。
この姿の先に十字架があります。主は私たちの汚れを背負うために、近づいてくださいました。
百人隊長の信仰。「ただお言葉をください」
百人隊長は言います。「ただお言葉をください」。これは創世記18章と響き合います。
神の約束の言葉が不可能を可能にし、イエスの言葉が病を退ける。
たとえるなら、鍵が回る瞬間です。扉が開く鍵は力ではなく正しい鍵です。
信仰とは、主の言葉という鍵を信じて回すことです。
嵐を静める主。恐れのただ中で「なぜ怖がるのか」
嵐は人生の現実です。突然来て心が揺れ、船が沈みそうに思えます。
でも主は嵐を叱って静めます。
ここで私たちは、創世記19章の裁きの恐ろしさを思い出しつつ、「自然も歴史も主の支配の下にある」という希望を見ます。裁きがあるからこそ、救い主の権威が頼もしい。この対比が胸に残ります。
見えない鎖を断ち切る救い
マタイ8章では、見えない束縛からの解放も描かれます。
人の力でどうにもならない鎖を、主は断ち切られます。
たとえるなら、絡まった糸玉です。自分でほどこうとしても、ますます固くなる。でも熟練者が触れるとスッとほどける。
主の救いは、そういう解放の力を持っています。
十字架と復活は、罪と死の支配を断ち切る出来事です。
だから主は今日も、あなたの見えない鎖に手を伸ばせるのです。
つながり 創18の「主の訪れ」→創19の「救い出す手」→マタ8の「触れて回復する主」
旧約は影。新約で“救い主が現場に来る”
創世記18章は主が訪れる章です。創世記19章は主が救い出す章です。マタイ8章は主が現場に入り、触れて癒し、嵐を静め、鎖を断ち切る章です。
旧約で見た“影”が、新約で“本体”として立ち上がります。
それがイエスキリストです。
十字架と復活が、裁きと救いを一本にする
裁きがあるから救いが必要です。救いがあるから裁きが恐れだけで終わりません。
主は十字架で裁きを引き受け、
復活で新しい道を開かれました。
だから今日、怖い章を読んだあなたの心に希望が残るのです。
まとめ 今日の一歩です
今日の「無理だ」を一つ書く
あなたの「無理だ」を一つ書いてください。
その横に小さくこう書いてください。「主に不可能はない」。
今日の「嵐」を主に渡す
不安を一つ書き出し、短く祈りましょう。
「主よ、私を助けてください」と。
結びの祈り
主よ。あなたは訪れ、救い出し、触れて癒し、嵐を静め、鎖を断ち切る方です。十字架の赦しと復活の命の確かさの上に、今日も私を立たせてください。イエスキリストの御名によってお祈りしますアーメン。
今日も一緒に進みましょう。怖い章ほど救い主の光が眩しく見えます。そして通読は、その光を毎日少しずつ、あなたの生活に差し込ませてくれます。