聖書通読2週目4日目【ショート版】失敗の先で、約束は生まれる(創20–21/マタ9)

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【聖書通読2週目4日目】失敗の先で、約束は生まれる(創20–21/マタ9)

同じところでつまずく日があります。
「またやってしまった」と落ち込むと、聖書を開く手が少し重くなります。
でも通読の素晴らしさは、まさにその“重い日”に、みことばが私たちを抱き起こしてくれることです。
創世記20〜21章では、人の弱さと、神の真実が並んで描かれます。
マタイ9章では、救い主イエスが罪と痛みのただ中に来られ、赦しと癒しを与えられます。
今日の通読は一言で言えばこれです。
主は変わらない。だから、約束は折れない。
この確かさを、心の深いところで味わいましょう。


創世記20章 弱さが出ても、主は約束を守り抜く

恐れが口を動かす。アブラハムの「保身の一言」

アブラハムは恐れから、サラのことを「妹です」と言ってしまいます。
以前にも似たことがありました。
読んでいる私たちは「またか」と思います。
でも聖書は、信仰者を美化しません。
信仰者でも怖くなる。判断がぶれる。言葉がずれる。
だからこそ、聖書は私たちの生活に“効く”のです。

たとえるなら、朝しっかり結んだはずの靴ひもが、気づくとまたほどけているようなものです。
「さっき結んだのに、どうしてまた?」と思う。
でも、ほどけた靴ひもを見て「もう歩けない」とは言いません。
立ち止まって結び直し、また歩きます。
信仰も同じです。
ほどけたら、結び直して、また歩む。
主は「ほどけたら終わり」と言わず、やり直す道を備えてくださいます。

神の介入。約束は「人の出来」ではなく「主の真実」で守られる

神はアビメレクに夢で語り、事態を止め、守り、立て直されます。
ここが福音的です。
私たちが完璧だから守られるのではありません。
主が真実だから守られるのです。

ここで思い出したい賛美があります。
「主のまことはくしきかな(Great Is Thy Faithfulness)」。
人の心は揺れます。
でも主の真実は揺れない。
だから私たちは、倒れた場所からでも、もう一度立ち上がれます。

 

 


創世記21章 涙の年月が、喜びの笑いに変わる

「神は私を笑わせてくださった」。サラの“深い笑い”

ついにイサクが生まれます。
サラは以前、約束を聞いたとき笑いました。
その笑いは「そんなの無理だ」という笑いでした。
でも今、サラは言います。
「神は私を笑わせてくださいました」。
これは軽い笑いではありません。
涙を知っている人の笑いです。
「本当に神は忘れていなかった」と、胸の奥が温かくなる笑いです。

たとえるなら、長い冬の終わりに、ある朝カーテンを開けたら庭に小さな芽が出ていたようなものです。
昨日まで灰色だった景色に、ほんの小さな緑がある。
それを見た瞬間、心がふっとほどけます。
「終わっていなかった。ここから始まる」。
それが創世記21章の喜びです。

弱さの直後に実現が来る。恵みの順番

大事なのは、約束が実現したのはアブラハムが完璧だったからではないことです。
創20の弱さの直後に、創21の成就が来ます。
つまり神は、私たちの出来に合わせて愛したり見捨てたりする方ではありません。
主は約束を守り、時にかなって実現してくださいます。
この順番が分かると、通読は「自分の失敗に飲まれない目」を育ててくれます。


マタイ9章 救い主は、罪と痛みのただ中で「赦しと癒し」を与える

まず赦しから。主は人生の“土台”を直される

中風の人に、イエスは癒しの前に「あなたの罪は赦された」と言われます。
主は、表面だけでなく根っこを見ておられます。

たとえるなら、家の壁紙がはがれているとき、壁紙だけ直しても土台が傷んでいたらまた剥がれます。
良い大工さんは床下に入り、土台を補強し、家が安心して立つようにします。
赦しは、人生の土台工事です。
イエスはそこから回復を始められます。

「立派になってから」ではない。主は近づき、共に食べ、起こされる

取税人マタイを呼び、罪人と食卓を囲み、血の止まらない女性に「娘よ」と言い、死の前で「恐れるな」と命を起こされる。
どれも共通点があります。
主は遠くから命令するだけではなく、近づき、触れ、声をかけ、回復を与える。
だから福音は、机上の話ではなく“今のあなた”に届きます。

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