
私たちは日々、目に見える情報や不安に心が引っ張られやすいものです。
聖書を開いても言葉が遠く感じる日があります。
祈ろうとしても心が散らばってしまうことがあります。
そんなとき、静かに私たちの魂を整えてくれる賛美があります。
新聖歌38(聖歌195番)「わが目を開きて」です。
この歌は気分を高揚させるための歌ではなく、霊の感覚を主に開いていただく祈りの賛美です。
詩篇119篇18節の「目を開いてください」という願い。
エペソ1章17-19節の「心の目が明るくされる」祈り。
列王記第二6章の「恐れより大きい主の守りが見える」出来事。
この三つの光を重ねながら、見える世界の奥にある主の現実に心が向き直っていく道を、やさしくたどってみたいと思います。
新聖歌38番(聖歌195番)「わが目を開きて」は、
短い賛美の中に深い祈りがぎゅっと詰まっている歌です。
この記事の目次
新聖歌38「わが目を開きて」
―見える世界の奥にある主の現実へ
新聖歌38「わが目を開きて」は、短い賛美の中に深い祈りがぎゅっと詰まっている歌です。
この賛美は、気分を高めるための歌ではありません。
生涯をかけて神の真理に耳を澄ませ、見える世界の奥にある主の導きを求める祈りの歌です。
私たちは忙しさや不安、情報の洪水の中で、目に見えるものに心が引っ張られやすい存在です。
だからこそ、この賛美の祈りは今の私たちにとってとても実際的です。
この賛美の背後には、三つの聖書の光が鮮やかに差し込んでいます。
詩篇119篇18節。
エペソ1章17-19節。
列王記第二6章です。
この三つを軸にしながら、心がますます満たされますように、ゆっくり味わってみたいと思います。

1. 「目を開いてください」―詩篇119篇18節
詩篇119篇18節はこう祈ります。
「わたしの目を開いて、あなたのおきてのうちのくすしき事を見させてください」。
ここで詩篇記者は、ただ「文字が読めるようにしてください」と願っているのではありません。
みことばの中に隠されている神の美しさと真実を、現実として見せてくださいと求めているのです。
たとえば、同じ景色を見ても、心の状態によって見えるものが変わることがあります。
旅行の写真を後から見返すと、「あの時こんなに空がきれいだったのか」と驚くことがあるでしょう。
当日は疲れていて、空の青さに気づく余裕がなかったのかもしれません。
景色は同じでも、私たちの“心のピント”が合っていないと、光を受け取れないのです。
みことばもそれに似ています。
聖書を開いても、心が重い日は言葉が遠く感じられることがあります。
自分を責める声や将来への不安が大きすぎて、恵みの声がかき消されてしまうのです。
しかし神は、私たちの目を開き、みことばの“くすしき事”を今日の現実に変えてくださいます。
「この言葉はあなたのためだ」と、心の深い場所に届く形で照らしてくださいます。
ですから、この賛美を歌うとき私たちは、
「主よ、聖書の言葉を理解できる頭を下さい」と祈るだけでなく、
「主よ、あなたの真理を“生きる力”として受け取れる目を下さい」と祈るのです。

2. 「心の目を明るくしてください」―エペソ1章17-19節
パウロはエペソの教会のためにこう祈りました。
知恵と啓示の霊が与えられ、
「心の目」が明るくされるようにと。
そして、
召しの望みが何であるか。
受け継ぐものがどれほど栄光に富むか。
信じる者に働く力がどれほど偉大か。
それを“知る”ことができるようにと。
ここでの「知る」は、テストの答えを覚えるような知識ではありません。
心が照らされ、「私はこの希望を本当に与えられている」と確信して生きられる状態のことです。
たとえば、家の中に非常灯があっても、どこにあるか知らなければ、停電の時に役に立ちません。
あるいは、薬箱に良い薬が入っていても、必要な時に取り出せなければ不安は消えません。
希望や力は“あるかどうか”だけでなく、
“それに気づき、手に取れるかどうか”が大切です。
私たちはイエスキリストにあって、
罪の赦しと神の子とされる恵みを受けました。
けれど心の目が曇ると、
「私は本当に赦されているのだろうか」と感じてしまうことがあります。
恵みが理屈に見えてしまい、喜びが実感にならない時があるのです。
だからパウロは祈るのです。
主よ、心の目を明るくしてください。
あなたの希望が“現実の灯り”として、いつもわたしの胸に照り続けるようにしてください。
新聖歌38「我が目を開きて」は、この祈りと深く響き合っています。
私たちがこの賛美を歌うとき、
「主よ、私の心の中の暗い部屋に灯りをつけてください」と祈っているのです。
恵みの価値が見えるように。
救いの確かさが私の歩みを支えるように。
3. 「恐れより大きい現実を見せてください」―列王記第二6章
列王記第二6章では、エリシャの僕が恐れに支配されます。
敵の軍勢に囲まれ、逃げ道がないように見えたからです。
彼の目には、危険と絶望しか映っていませんでした。
その時エリシャは祈ります。
「主よ、どうか彼の目を開いて見えるようにしてください」。
すると僕は、山に満ちている火の馬と火の戦車を見ます。
天の守りが地上の脅威をはるかに超えていることを知るのです。
ここに信仰の大切な原理があります。
恐れの原因が消えたから平安になったのではありません。
恐れより大きい主の現実が見えたから平安になったのです。
たとえば夜道で枝が揺れる音がしたとき、
暗闇では大きな恐怖に感じられることがあります。
けれど灯りをつけると、ただの風だったと分かります。
問題が巨大だったのではなく、
私たちの視界が暗かったのです。
私たちの現実も同じです。
健康の不安。
家族の問題。
経済の重圧。
心の疲労。
これらは確かに現実です。
しかしそれと並んで、いやそれ以上に大きな現実があるのです。
主が共におられるという現実です。
主の守りが働いているという現実です。
主の御手が今日も私たちを支えているという現実です。
この賛美を歌うとき、
私たちはエリシャの祈りを自分の祈りとして重ねることができます。
「主よ、私の目も開いてください」。

4. 目→耳→口→心
この賛美が示す霊的成長の順路
新聖歌38には、霊的成熟の順序が美しく含まれています。
目を開いてください。
耳を開いてください。
口を開いてください。
心を開いてください。
これは、
理解が与えられ、
従順が育ち、
証しが生まれ、
人格全体が主にささげられていく流れです。
たとえば、料理に似ています。
まずレシピが見えることが必要です。
次に、火加減や順序に耳を傾けるように、みことばに従う姿勢が必要です。
そしてできあがった恵みを、「おいしかった」と人に伝えたくなるように、証しが口から出てきます。
最後に、料理が生活の一部になるように、信仰が人格の土台に根づいていきます。
この賛美は、
私たちが焦らず段階的に主に整えられていくことを教えてくれます。
「完璧な信仰者にならなければ」と力む必要はありません。
まず“目を開いてください”と祈り、
そこから主が順序正しく育ててくださるのです。
5. 福音へ
私たちがこの祈りを大胆に歌える理由
私たちが「主よ、開いてください」と祈れる根拠は、
イエスキリストの十字架と復活にあります。
十字架は、
私たちの罪が赦されたという神の宣言です。
復活は、
その赦しと救いが真実であるという神の保証です。
だから私たちは、
「こんな私が祈っていいのだろうか」と縮こまるのではなく、
「赦され、愛されている者として求めよう」と願うことができます。
恵みは、祈りの門を閉ざすのではなく、開くのです。
この賛美を歌うとき、
私たちは救いの事実を胸に置きながら、
今日の歩みの中で
新しく整えられる恵みを求めているのです。
結び
新聖歌38「わが目を開きて」は、
不安の時代を生きる私たちのための、静かで力強い祈りです。
目に見える世界に心が支配されそうなとき、
主の現実を見せてくださいと祈る道を与えてくれます。
詩篇119篇18節は、
みことばの驚くべき真理を見せてくださいと祈りました。
エペソ1章17-19節は、
心の目が明るくされ、希望と力を確信できるようにと祈りました。
列王記第二6章は、
恐れより大きい天の守りを見せてくださいと祈りました。
この三つの光が重なるとき、
私たちの中に一つの祈りが生まれます。
「主よ、私の霊の感覚を開いてください」。
問題が消える前に、
主の臨在が見えるように。
答えが来る前に、
希望が心に点るように。
恐れが叫ぶ前に、
福音の確かさが胸に響くように。
今日も私たちは歌えます。
主よ、わが目を開いてください。
主よ、わが耳を開いてください。
主よ、わが口を開いてください。
主よ、わが心を開いてください。
この祈りを、
十字架と復活の主が
やさしく、しかし確かに導いてくださると信じます。


