
🎵 わが心の目をひらいて下さい(小坂 忠)🎵
「信仰の目で視えるように そして 信仰の耳で聴こえるようにしてください。」 (列王記第二 6章8~23節)
皆さん、おはようございます。
今日わたしたちは、列王記第二6章8~23節から、 「信仰の目で視えるように そして 信仰の耳で聴こえるようにしてください」 というテーマで御言葉をともに味わいたいと思います。
現代は、目に見える情報と、耳から入ってくる情報でいっぱいの時代です。 ニュース、ネット、SNS、健康診断の結果、通帳の数字、人の顔色…。 それらに振り回されて、心が不安でいっぱいになってしまうことはないでしょうか。
しかし聖書は、 「目で見えるものに信頼するのではなく、信仰の目と信仰の耳で、神さまの約束に信頼しなさい」 と、私たちに語りかけています。
今日は、エリシャとそのしもべの出来事を通して、
「見える現実」と「見えない神の守り」
「人の声」と「神の約束の声」の違いを、 ご一緒に心に刻んでいきたいと思います。
この記事の目次
Ⅰ.見える情報に振り回される私たち
まず、少したとえから始めます。
最近は、スマホで天気予報アプリを見ることが当たり前になりました。 アプリは「今日は一日中雨です」と教えてくれることがあります。 でも、窓の外を見てみると、青空でとてもいい天気のときもあります。
逆に、窓から見える空はまだ明るいのに、 レーダーでは「もうすぐ激しい雨雲が近づいています」と知らせてくれることもあります。
どちらか片方だけを見ていると、判断を間違えてしまうことがあります。 「見えるもの」だけがすべてではなく、 「見えていない世界」も確かに存在しているのです。
私たちの人生も同じではないでしょうか。 目に見える状況だけを見ていると、 「もうだめだ」「希望がない」「未来は真っ暗だ」と感じてしまいます。
耳に入ってくるニュースや、人の心ない言葉、自分の中の不安の声だけを聞いていると、 心の中はすぐに恐れでいっぱいになってしまいます。
今日、神さまは私たち一人ひとりに問うておられます。
「あなたの安心の土台は、何を見て、何を聞いて、どこに置いていますか?」
Ⅱ.敵に囲まれた朝―しもべの目に映ったもの(列王記第二 6:15)
さて、聖書に目を向けましょう。
列王記第二6章には、アラム王とイスラエルの戦いの場面が出てきます。 アラム王は何度もイスラエルを攻めようとしましたが、ことごとく作戦が失敗します。
なぜでしょうか。
それは、神さまが預言者エリシャに、アラム王の計画を前もって知らせておられたからです。 エリシャはその情報をイスラエルの王に伝え、 イスラエルは何度も危険から守られていたのです。
アラム王は怒り、 「エリシャという預言者がイスラエルにいて、わたしの計画を全部知らせている」と聞きます。 そこで彼は、エリシャを捕らえるために、大軍を送ってドタンの町を包囲しました。
ある朝早く、エリシャのしもべが外に出てみると、 町の周りは馬と戦車の大軍でぐるりと囲まれていました。
彼は叫びます。
「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」
これが、「目に見える現実」だけを見ている人間の姿です。 彼の目に見えたのは、 圧倒的な敵の数、武器、包囲、逃げ道のなさです。
彼の耳に聞こえてきたのは、 戦いの準備の音、自分の心の中の恐れの声、 「終わった」「もう無理だ」という絶望のささやきだったでしょう。
これは、私たちの姿そのものです。
・検査結果の紙を見て、不安で一杯になる。 ・通帳の残高を見て、「どうしたらやっていけるのだろう」と心配になる。 ・家族や職場の問題を見て、「もう変わらない」とあきらめてしまう。
肉の目と耳だけに頼ると、恐れに支配されるのです。
Ⅲ.エリシャの祈り―「主よ、目を開いてください」(16–17節)
しかし、その同じ場面で、エリシャは全く違うことを語ります。
エリシャは、恐れおののくしもべに言いました。
「恐れてはならない。 私たちと共にいる者は、彼らと共にいる者よりも多いのだ。」
しもべは、「え?」と思ったでしょう。 目の前には敵の大軍しか見えません。 自分たちは少人数。 計算しても、どう見ても「負け戦」です。
しかしエリシャは続けて祈ります。
「主よ。どうか、彼の目を開いて見えるようにしてください。」
すると聖書はこう記します。 しもべの目が開かれたとき、彼は見ました。
山は、火の馬と戦車で満ちていて、エリシャを囲んでいた。
状況が先に変わったのではありません。 敵の大軍が突然消えたわけでもありません。 変わったのは「しもべの見え方」でした。
ここで、もう一つたとえを使いたいと思います。
視力が弱い人が、メガネなしで世界を見ると、 すべてがぼやけて見えます。 人の顔も、文字も、景色も、はっきりしません。
しかし、メガネをかけた瞬間、 全く同じ部屋、同じ風景が、くっきりと見えるようになります。 部屋が突然変わったわけではありません。 見える力が変えられたのです。
信仰とは、 「神さまのメガネ」をかけて現実を見ることだとも言えるかもしれません。
・問題は確かにあります。 ・敵のように感じる状況も、苦しい現実も、そこにあります。
しかし信仰の目が開かれるとき、 私たちは同じ状況の中に、それでもなお 「主の守り」「主の御手」「主の軍勢」があることを見始めるのです。
だからこそ、まずこう祈りたいのです。
「主よ、状況を変えてください」の前に、 「主よ、私の目を開いてください。 あなたの守りが見えるようにしてください。」
Ⅳ.信仰の耳で聞くとは、どの声を一番大きく聞くかを選ぶこと
次に、「信仰の耳」について考えてみましょう。
エリシャは、肉の耳で聞こえる音だけでなく、 主の語りかけ、主の計画、主の約束を「聞いて」いました。
一方のしもべは、 ・敵の音 ・自分の恐れの声 ばかりを聞いていました。
私たちも似ています。
ある人は、毎日ニュースとSNSばかりを見聞きしています。
そこには、不安な情報、怒りをあおる言葉、比較して落ち込ませる言葉があふれています。
すると、心の中の「ラジオの周波数」は、 恐れと不安のチャンネルにぴったり合ってしまいます。
その結果、心に流れてくるのは、 「ダメだ」「足りない」「どうしよう」という声ばかりです。
しかし信仰の耳とは、
「どの声にチューニングを合わせるか」を選び直すことです。
たとえば、ラジオを回しているとき、 ガーガーという雑音の周波数に合わせていれば、 もちろん、心も落ち着きません。
でも、少しダイヤルを動かして、 正しい周波数に合わせると、 きれいな音楽や、心を励ますメッセージがはっきりと聞こえてきます。
御言葉は、信仰の耳の一番の栄養です。
見える現実がどんなに暗くても、 神さまの約束は揺らぎません。
「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない。」
「恐れてはならない。わたしがあなたと共にいる。」
このような御言葉を、 ニュースやSNSよりも、何よりも先に、 一番大きな声として心に受け取るとき、 信仰の耳が育っていきます。
Ⅴ.信仰の目と耳は、「敵」への態度さえ変えてしまう(21–23節)
物語の後半も、とても大切です。
アラム軍の目は、主によってくらまされ、 彼らはエリシャに導かれて、イスラエルの王のいるサマリヤの真ん中に連れて来られます。
そのとき、イスラエルの王は興奮して言います。 「お父上よ、彼らを打ちましょうか。打ちましょうか。」
人間的には、とてももっともな反応です。 敵を滅ぼす絶好のチャンスに見えました。
しかし、エリシャの答えはまったく違いました。
「彼らにパンと水を与えてやりなさい。食べさせ、飲ませて、主人のところに帰らせなさい。」
王は大宴会を開き、 敵であった彼らに食事をふるまい、もてなします。 そして、彼らは無事に帰されます。
その結果どうなったか。 聖書は、 「そののち、アラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に来なかった」 と記しています。
力による報復ではなく、 恵みによる関係の変化が起こったのです。
信仰の目と耳は、 わたしたちの「敵の見え方」さえ変えてしまいます。
・ただの「憎らしい相手」から、 ・神さまの恵みを流すべき「相手」へ。
自分を守るためだけでなく、 神の愛をあらわすために生きる道へと、 私たちを導いてくれます。
Ⅵ.結び:目に見えるものではなく、神の約束に信頼の土台を置いて生きる
最後に、もう一度、今日のメッセージをまとめます。
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肉の目と耳だけに頼ると、恐れに支配されます。
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信仰の目が開かれると、同じ状況の中で、主の守りが見えてきます。
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信仰の耳が整えられると、 世の声ではなく、神の約束を一番大きな声として聞くようになります。
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信仰の目と耳は、 敵への態度さえ変え、恵みの器として歩む力を与えてくれます。
ですから、今日、私たちはこう祈りたいのです。
「目で見えるものに信頼するのではなく、 信仰の目で視え、信仰の耳で聴こえる、 神さまの約束に、わたしの信頼の土台を置かせてください。」


お祈り
最後に、お祈りいたします。
尊き父なる神さま。 今日、列王記第二の御言葉を通して、 目に見えるものだけで判断してしまう私たちの弱さを示してくださり、ありがとうございます。どうか、私たちの目を開いてください。エリシャのしもべの目が開かれたように、 私たちも、恐れに囲まれた状況の中で、 神様あなたの守りと、見えない神の軍勢と、確かな神様の御手を見ることができるようにしてください。また、私たちの耳を整えてください。世の不安な声や、自分の心の否定的な声ではなく、 あなたの御言葉と、変わることのない約束を、 一番大きな声として聞くことができるようにしてください。目で見えるものに信頼するのではなく、 信仰の目と信仰の耳をもって、 あなたの約束の上に、人生の土台を置いて歩む者としてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。





