Apple Watchが鳴らした警報と、聖書が鳴らしている愛の救いのある警報

この記事の目次

Apple Watchが鳴らした「警報」と、聖書が鳴らしているもう一つの警報 ― 死を越える希望はどこにあるのか

クリスチャンの死は永遠の別れではなく永遠への祝福への出発である。
聖書の『愛の救いのある警告』」とこの世の『救いのない脅しの警告』」の違いについて


導入:階段から落ちた出来事とApple Watchの警報

一年以上前のある朝、
ゴミを出す日でいつものようにゴミ袋を持って、二階から階段を降りていました。
ところが、あと数段というところで足を滑らせ、なぜか足からではなく、前のめりに倒れてしまい、左胸と鎖骨あたり、そして左肩を激しく打ちつけました。
「しまった!」と思うと同時に、恥ずかしさもあって、すぐに起き上がろうとしました。 ところが、痛みと衝撃で、しばらくそのまま動けませんでした。
そのときです。 腕につけていた Apple Watch が、突然ブルブルと震え、画面いっぱいにメッセージを表示し始めました。
「大きな転倒を検出しました。大丈夫ですか?」
まるで私の身に起こった「ただごとではない衝撃」を察知したかのように、 立て続けに状況確認のメッセージが表示され、必要なら救急車を呼ぶよう促してくるのです。
慌てた私は、 「恥ずかしい、何とかキャンセルしたい」とボタンを押したり画面を触ったりしましたが、 うまく操作できません。
すると突然、家じゅうに響き渡るような大音量の警報音が鳴り響きました。 画面には大きく「警報!」の文字。
どうすれば止まるのかわからず、しばらくうろたえていると―― やがて 119 番から電話がかかってきました。
「転倒されましたか、大丈夫ですか? 救急車は必要ですか?」
本当は自分でも「大丈夫かどうか分からない」状態でしたが、 思わずこう答えていました。
「だ…大丈夫です。救急車は結構です。」
痛みはあるものの、命にかかわるほどではなさそうだ―― そう自分に言い聞かせながら、電話を切りました。
この出来事を通して私が一番びっくりしたのは、 「人間の知恵がここまで来たのか」という驚きでした。
階段から転落して強烈な打撃を受けたとたん、アップルウォッチが察知して
警報を発し、そして119番に電話をかけ救急隊員からの安否確認の電話が入るというすごいシステムが発動するって
すごいですよね。
これが有料の救急システムに加入しているならいざ知らず、
ただアップルウォッチを腕に付け携帯電話であるアイフォンと連携させているだけなのですから。

問題提起:人間のシステムの限界(死を越えられない)

Apple Watch やスマートフォン、各種センサー、救急のしくみ…… 現代のテクノロジーは、驚くほど高度です。
  • 異常な衝撃を感知する
  • 画面で本人の反応を確認する
  • 大きな警報音で周囲に知らせる
  • 必要に応じて 119 番へ自動通報し、救急隊から確認の電話が入る
これらは人間の「命を守る」ための、素晴らしいシステムです。 ある意味で、「地上のいのちの見張り番」と言ってもいいでしょう。
しかし―― どんなに優れたシステムでも、決して越えられない境界線があります。
それは、
「人は死んだらどうなるのか?」 「人間はどこから来て、どこへ行くのか?」 「人生にはどんな意味があるのか?」
という問いに対して、何一つ答えを出すことができない、ということです。
聖書はこう語ります。
人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている…」ヘブル人への手紙 9章27節
これは神様からの、ある意味で厳粛な「警報」です。 「あなたはいつか必ず死にます。その後には、神の前に立つ時がありますよ」と 教えているのです。
どんな精密なセンサーも、
  • 死後の世界を測定することはできません。
  • 永遠をカメラで撮影することもできません。
  • 裁きの日の結果を AI で予測することもできません。
人間の作るあらゆるシステムは、「死ぬまで」をどう守るか、どう延ばすか、までしか扱えません。 「死んだ後」を扱うことができるのは、永遠を造られたお方、すなわち創造主なる神様だけなのです。

 

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている…」ヘブル人への手紙 9章27節

この聖書の言葉は、私たち人間の現実を、とてもシンプルに、しかし逃げ場のない形で語っています。
「一度死ぬこと」「その後にさばきがあること」。これは、信仰の有無に関係なく、誰一人として避けることのできない現実です。

私たちは、健康管理をし、保険に入り、最新の医療やテクノロジーの助けを借りて、できる限り長く生きようとします。
それ自体は悪いことではありません。しかし、どんなに努力しても、「死そのもの」を完全に取り除くことはできません。
聖書は、その事実に真正面から光を当てます。「人間には、一度死ぬことが定まっている」と。

しかし、この御言葉はただ脅かすための「宣告」ではありません。
続く28節で、神様の備えた「救いの道」が語られているからです。
「キリストも多くの人の罪を負うために、一度、ご自身をささげられた。」

ここに、もう一つの“いのちのシステム”があります。
それは「自分の努力で神に認められようとする」システムではありません。
そうではなく、「イエス・キリストが、私の代わりに罪のさばきを受けてくださった」という、恵みのシステムです。

本来、死後のさばきは、私たちの罪を裁く場です。
心の中でさえ、人を憎み、妬み、さばく私たち…。
神の前に完全に正しい人など、一人もいません。
だから本来、さばきは恐ろしい場所のはずです。

しかし、イエス・キリストは十字架の上で、あなたの罪も、私の罪も、すべて背負ってくださいました。
「一度きりの死」の重さを、私たちに代わって真正面から引き受けてくださったのです。
その証拠として、三日目によみがえり、死を打ち破られました。

もし私たちが、自分の罪を認め、このキリストを自分の救い主として信頼するなら、
死後のさばきは「罪人として裁かれる場」ではなく、「キリストに属する者として受け入れられる場」へと変えられます。
さばきそのものが消えるのではなく、「キリストにあって義と認められる」という驚くべき立場が与えられるのです。

「一度死ぬことと、死後のさばき」は、誰にとっても避けられません。
けれども、「そのさばきを、キリストにおいて通過した者として迎えるのか」、
それとも「自分一人で立つのか」は、今ここで決めることができます。

この御言葉は、恐ろしい警告であると同時に救いの宣告でもあるのです。
今、イエス・キリストを信じて歩み始めるなら、死もさばきも乗り越える“永遠の希望があることを教えているのです。


聖書の答え:創造主なる神様と、死と裁きに対する警告

聖書は、はじめから終わりまで、一貫してこう語ります。
  • 人間は偶然の産物ではなく、神にかたどって造られた存在であること
  • しかし、人は神に背を向け、罪の中を歩むようになったこと
  • その結果として、死と断絶が世界に入り込んだこと
そして同時に、先ほどの御言葉の続きのように、 「死」と「死後のさばき」が、誰にとっても避けられない現実であると語ります。
ある意味で、神様は Apple Watch よりもはるかに前から、 人類に向かって「警報」を鳴らし続けてこられたと言えるかもしれません。
「このまま神なしで生き、神なしで死んでいくなら、 最後に必ず裁きの前に立つことになる。 その道は危険だよ。」と。
しかし、ここで終わってしまうなら、 聖書は「恐ろしい警報の本」でしかありません。
ところが、聖書が教える神様は、 警告だけを鳴らして突き放すお方ではありません。

福音:イエス・キリストの十字架と復活

神様は、警報と同時に「救いの道」も用意しておられます。 その中心が、イエス・キリストの十字架と復活です。
聖書はこう語ります。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。 それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
ここには、神様の救いのシステムの全体像が凝縮されています。
  1. 神は愛しておられる
    人間の世界がどれほど混乱していても、 私たち一人ひとりの人生がどれほど傷つき、ゆがんでいても、 なお神は「世を愛された」と宣言しておられます。
  2. 神は「ひとり子」を差し出された
    イエス・キリストは、単なる偉人や宗教家ではなく、 神のひとり子としてこの世界に来られました。 私たちの罪の身代わりとして、十字架で死なれました。
  3. 信じる者は、滅びではなく永遠のいのちへ
    「御子を信じる者が、一人として滅びることなく」―― これは、死そのものがなくなる、という意味ではありません。 しかし、「死が終点ではなくなる」という意味です。 死を通って、神様のもとに帰る「永遠のいのち」の約束が与えられるのです。
人間の作るシステムは、 「死なないように」「少しでも長く生きられるように」と頑張ります。
しかし神様の救いのシステムは、 「たとえ死んでも、永遠のいのちへと導く」ものです。
十字架で罪が清算され、 復活によって死が打ち破られた――。
このイエス・キリストこそ、 「死を越えた答え」をお持ちの唯一のお方なのです。

実例:義母の召天と「爪あとが残るアーメン」

少し前、私の妻の母が、98歳で天に召されました。 最後の方は認知症が進み、 言葉を一生懸命話そうとしてくれているのに、その意味を受け取れない―― そんなもどかしい時間が続きました。
けれども、義母には大きな希望がありました。 それは、約 50 年前にクリスチャンになり、 イエス・キリストを自分の主・救い主として信じ、 長い年月を感謝と喜びのうちに歩んできた、という事実です。
最後の夜、 ベッドで横たわる義母のそばで、 私と妻と義母の三人で祈りました。
「主よ、長い人生を守ってくださり、ありがとうございます。 もうすぐ天に迎えてくださることを感謝します。 義母が、イエス様を信じて天国に行けることを感謝します。 そして、天国でまたお会いできることを感謝します。」
そう祈り、 私は義母の手を握りながら、耳元ではっきりとこう宣言しました。
「お義母さん、天国に行けることを感謝します。 そして天でまた会えることを感謝します。アーメン。」
その瞬間です。
もういつ息が止まってもおかしくないような状態だった義母が、 わたしの手の甲に義母の爪あとが残るほどの力で、私の手をぎゅうっと握りしめたのです。
私はその時、 「義母の意識はもうろうとしていても、耳は聞こえていた。 今の祈りに対して、心から『アーメン!』と叫んだのだ」と確信しました。
  • 「イエス様が私の救い主である」
  • 「私は天国へ行く」
  • 「またそこで会える」
この信仰と希望に、義母は最後の力を振り絞って「同意」してくれたのです。
その後、義母は静かに、しかし確かな希望のうちに、 この地上の歩みを終え、天のお父さんのもとへと帰って行きました。

結論:クリスチャンの希望は天国にある

聖書は、やがて来る世界について、こう約束しています。
「人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。 もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。」
クリスチャンにとって「死」はすべての終わりではなく永遠の喜びへの入口です。
  • そこには、病気も老いもありません。
  • 言葉が出てこない苦しみもありません。
  • 誤解も争いもなく、完全な愛の交わりがあります。
  • そして何より、イエス・キリストご自身と顔と顔を合わせてお会いできる場所です。
Apple Watch が転倒を検知して警報を鳴らし、 119 番が安否確認の電話をくれたように――
神様は、聖書を通して、 私たち一人ひとりの心に向かって「警報」を鳴らし、 同時に「救いの道」を差し出しておられます。
  • 「このままで本当にいいのか?」
  • 「死んだ後、どこへ行くのか?」
  • 「自分は何のために生きているのか?」
その問いに対する答えは、 人間の知恵やシステムの中にはありません。
しかし、イエス・キリストの十字架と復活の中に、 はっきりと、そして十分に備えられているのです。

まだイエス・キリストを信じていないあなたへ

もし今、この文章を読んでいるあなたが、 「自分はクリスチャンではない」と感じておられるなら、 少しだけ、心を静かにして考えてみてください。
  • 人生はいつか必ず終わります。
  • しかし、その先にも続きがあるとしたらどうでしょうか。
  • そして、その行き先が「今ここでの決断」によって変わるとしたら?
イエス・キリストは、 十字架であなたの罪の身代わりとなり、 三日目によみがえり、 今も生きておられます。
そして、あなたにもこう語っておられます。
「わたしを信じなさい。 そうすれば、あなたは永遠のいのちを得ます。」
もし心のどこかで、 「本当の希望がほしい」「死を越える確かな答えがほしい」と願っておられるなら、 どうか、静かにイエス・キリストに呼びかけ祈ってみてください。
「主イエス様。 私の罪のために
十字架で死に、よみがえってくださったことを信じます。 イエス様こそわたしの主であり、わたしの救い主と信仰で受け入れます。」と。
このシンプルな祈りを、 神様は決して軽く扱われません。
Apple Watch が転倒を検知したように、 神様は、あなたの心の小さな「助けて」という叫びを、 確かに聞き取ってくださるお方です。
そして、
「天でまた会える」
――その希望を、あなたにも与えたいと願っておられるのです。

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