
この記事の目次
新生讃美歌73番誕生物語
ディートリッヒ・ボンヘッファー──信仰と愛と希望の詩

1940年代のドイツ。
全土がナチス・ドイツの専制に覆われ、人々は恐怖に支配されていました。
そんな時代、一人の牧師が声を上げました。ディートリッヒ・ボンヘッファー──彼はルター派の神学者であり、告白教会の一員。
信仰の自由を守るため、抵抗運動に身を投じ、ついに1943年4月、ゲシュタポ(秘密警察)に逮捕されました。
冷たい独房に閉じ込められた彼は、希望が消えそうな日々を過ごしました。
それでも、彼の心には鮮やかな光があり続けたのです。
収容所も、遠い歓声も届かない暗闇の中で、彼は手紙を書きました。
1944年12月19日、ベルリンの国家保安本部(ゲシュタポの本部)の地下牢にいて、婚約者であるマリア・フォン・ウェデマイヤーに向けたその手紙には、こう記されていました:
「数夜のうちにわたしの心に浮かんだ数行を、あなたとご両親、そしてご家族へのクリスマスの挨拶として」。
それこそが、後に「善き力にわれ囲まれ(ドイツ語原題:Von guten Mächten)」として讃美歌になった、ボンヘッファーの最後の神学的作品でした。
詩の言葉と希望の光
彼自身、父や兄弟、姉妹や婚約者など愛する人々に思いを馳せながらも、自らの命がいつ断たれてもおかしくない状況にありました。
同じ牢には、彼の兄も、ナチスに抵抗した仲間たちも、多くが囚われていました。
そんな極限の中で書かれた詩は、痛みと同時に、深い信頼と希望をたたえていました。

詩は七連からなり、最後のストローク「善き力に守られつつ、来たるべき時を待とう。
夜も朝もいつも神は、われらと共にいます。」は、まるで祈りのように繰り返され、暗闇の中で囚われた者に光を注ぎます。
心に響く、実話
暗闇に咲いた種
1944年12月。
ベルリン、国家保安本部の地下牢に閉じ込められたディートリッヒ・ボンヘッファー。
ライトは冷たい白色で、壁は湿り気を帯び、空気は重く澱(よど)んでいました。
床には薄いマットレスが放られ、遠くで聞こえる足音も、鉄格子を伝う声もありません。
彼の唯一の慰めは、記憶と想像でした。
幼少期に語り聞かせられた家族との温かな時、説教堂で響いた賛美の声、そして婚約者マリアの笑顔。
書くことのできる紙さえ限られた中、彼はペンを握りました。
何を書こう──祈り方も忘れそうな日々の中で、彼は言葉を紡ぎました。
「善き力にわれ囲まれ」──
その言葉には、囚われの身である自分が、神の御手に包まれているという揺るぎない信頼が込められていました。彼は自分自身に語りかけ、マリアに、そして神に歌いかけるように書き続けました。
希望の灯が宿る詩
詩は七つの連から成り、ひとつひとつが静かな祈りでした。
最初の連は、「善き力にわれ囲まれ、守りなぐさめられて」。
彼は神の守りを確信し、愛する人々と共に新しい日を迎えたいと願いました。
次の連では、過去の重荷が今も心を苦しめること、それでも「みむねにしたがいゆく」と告白します。
苦しみの杯を差し出されても、震えることなく「愛する手から受けよう」。
その信仰の深さに、暗闇の中でも涙が静かに溢れました。
そして、もし再び世界の輝きが与えられるのなら、過ぎ去った日々を胸に刻み、生涯をもって神にささげようと決意します。
蝋燭のような小さな光が、彼の心に暖かく灯ります
──「主のともし火は、われらの闇の中に」。
静寂がもっとも深い時、見えない世界の賛美が聞こえたら。
神の子らの讃美が、目に見えぬ世界から響いて来るなら──その想像に、彼の魂は震えました。
最後には、夜も朝も、どんな日も神は共にいると確信し、未来を恐れずに待とうと結びます。
この詩は、囚われの身であっても、声にならない声が希望へと変わる瞬間でした。
ボンヘッファーの最期は・・・
一、運命の序章
1945年4月、春の影は裂かれ、新たな恐怖が地に満ちていた。
ベルリンの牢獄から始まった旅路は、ブーヘンヴァルト、レーゲンスブルク、そして最終的にフロッセンビュルク収容所へと続いた。
その移送は鉄柵のトラックの中で、囚人たちが鎖につながれて揺られる途上でも、ボンヘッファーは柔らかな声で仲間たちに説教し、絶望に光を注いでいた。
その眼差しには、獄中でさえも折れることのない信仰の揺らぎがあった
―― 彼はただの神学博士ではなく、希望の灯火そのものだった。
二、裁判という狂気
4月8日夜、彼は音もなく法廷へ引き出された。
裁判と呼ぶにはあまりにあまり
──目撃者もなく、弁護も開かれず、記録も留められず。
まるで影のような人間裁判が開かれ、「高罪」を認定されたその夜、死刑宣告が下された。
胸には、かつてマリアに宛てた詩の言葉が鮮やかに蘇っていた。
何が起ころうと、「善き力にわれ囲まれ」ている――その信頼は、闇を切り裂く祈りだった。
三、光に向かって歩む最後の時
夜明け前のろうそくの消えた静寂の中、囚人たちはふるえた。
「脱がされよ」と命じられた彼は、自ら衣を脱ぎ、重苦しい空気のただ中に立った。
だが彼の眼差しは静かで、それは恐れではなく、むしろ受容の光だった。
処刑場へと引かれると、ボンヘッファーはひざまずいた。そして祈った。
「主よ、あなたの御心を成してください。」その祈りは震えるでもなく、一語一語が確信の糧であったと語り継がれる。
彼はゆっくりと顔を上げ、ある者の記憶にこう残された。
「まるで神が彼の側に立ち、祈りをともにしているようだった」と。
そのまま少しの階段を登り、絞首台に昇った。
ある証言によれば、使われたのは屠殺用の肉鉤と鋼線の絞首具。
ゆっくりと首が締まり、闇の中への旅が始まった。苦しみは長く、拷問のように身体を締め付けた
――だがその苦難の中にも、彼の精神は自由で冷静であった。
処刑場にいた医師は、その様子を「人生でこれほど神の御心に委ねた死は見たことがない」と記した。
四、終わりではなく、始まりへ
処刑から数秒後、ある捕虜がこう語った。
「これは終わりだ。
しかし彼にとっては、命の始まりだ。」
死は終幕ではなく、信仰による飛躍であると
――その証言は、夜明けを迎える前の闇を照らす光だった。
わずか39年の生涯。
その最後は静かで力強く、世界を変える祈りとともに幕を閉じた。
戦後、彼の書き残した詩と著作は、人々の魂の糧となり、教会の賛美歌として今も語り継がれている。
メロディを得て、讃美歌として生まれ変わる
詩として完成していたこの言葉は、戦後に出版され、多くの人に知られるようになりました。
1959年にはオットー・アーベルによって作曲され、1970年にはジークフリート・フィッツが新しいメロディを与えました。
このフィッツによる旋律こそが、広く親しまれている「新生讃美歌73番『善き力にわれ囲まれ』」のメロディです。
この讃美歌は、祈りを歌に変え、教会に、そして個々の心に深い慰めをもたらしています。
讃美歌としての旅立ち
戦争が終わり、彼の手紙は公開されました。
その言葉は人々の心に希望を灯し、多くの翻訳や旋律が生まれました。
中でもジークフリート・フィッツのメロディは、深い共鳴を呼び、教会で歌われる讃美歌となりました。
日本でも2003年7月に「新生讃美歌73番」として収録され、多くの信徒の祈りとなっています。
感動と魂のつながり
この詩は、ただ美しい言葉ではありません。
それは、命を賭して信仰を全うした者の魂から放たれた光です。
暗い牢の中で、恐怖と孤独に揺れる心が、神の善き力によって静められ、勇気に満たされ、未来に希望を託すものへと変えられました。
私たちもまた、人生に暗闇や試練を抱える時、この詩のような言葉と音に導かれて、神の光に心を開くことができるでしょう。

関連する聖書の御言葉(二重の支えとして)
詩にぴったり響く聖書の御言葉をいくつかご紹介します。
* **使徒16章25-26節**
「真夜中ごろ、パウロとシラスは祈り、賛美していた。その囚人たちが聞いていた。
すると突然大地が揺れ、牢の根もとが動き、すべての戸が開き、縛りが解けた」
→ 獄中でも賛美し続けた者たちの物語は、暗闇の中で勇気と解放が生まれることを思い起こさせます。
* **詩篇130篇5-6節**
「私は主を待ち望む。
私のたましいは主を待ち望む。
夜警が夜明けを待つよりも、私は主を待ち望む」
→ ボンヘッファー自身の「夜も朝も神は共にいる」という詩の精神と重なります。
※※ゲッセマネのイエスの祈り(ルカ22:42)※※
「父よ、もしはできますなら、この杯をわたしから取り除いてください。しかしわたしの願いではなく、御心が行われますように」
→ 苦しみの中で受け入れ、感謝をもって神の御手から受ける決意と響き合います。

ボンヘッファーの詩に込められた「善き力への信頼」は、まさにパウロが語った「希望は失望に終わらない」という信仰と深く響き合います。
✨希望は決して失望に終わらない
パウロはローマ人への手紙でこう語りました。
**「この望みは失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)**
人生には、ボンヘッファーが味わったような暗闇があります。
獄中、死を目前にしても、彼は「善き力にわれ囲まれ」と告白しました。
それは単なる感情ではなく、神が共におられるという確信から生まれた信仰でした。
パウロもまた、多くの苦難に直面しました。
投獄され、むち打たれ、仲間に裏切られ、命の危険にさらされました。
しかし彼はこう言い切ります。
**「私たちは四方から苦しめられても、行き詰まらず、途方に暮れても、失望せず、迫害されても、見捨てられず、打ち倒されても、滅びません。」(コリント第二 4:8-9)**
なぜなら、苦しみの中にあっても神が共におられるからです。
パウロは「苦難は忍耐を生み、忍耐は練られた品性を生み、練られた品性は希望を生む」(ローマ5:3-4)と語りました。
この希望は、状況や環境に左右されるものではなく、神ご自身が保証してくださる希望です。
ボンヘッファーもまた、獄中で「神は夕べにも朝にも、そして新しい日ごとに共におられる」と詩に書き残しました。
これはパウロが体験した信仰とまったく同じ告白です。
神が共におられるからこそ、たとえ未来が暗くても、信仰者は希望を失わないのです。
最後にパウロの確信を思い起こしましょう。
**「私は確信しています。死も命も、御使いも支配者も、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高さも深さも、その他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:38-39)**
ボンヘッファーが歌った「善き力」とは、この神の愛そのものです。
だからこそ希望は失望に終わることなく、神は決して見捨てることがありません。
なんと私たちの信じている神様は素晴らしい神様でしょう。
「ボンヘッファーの信仰」と「パウロの信仰」
そして、わたしのような愚かなどうしようもない信仰者でも、
神様が用いて下さるということです。
信仰を働かせたいです。
そしてたからかに「信仰は勝利!!」と叫びたいです。
ボンヘッファーが獄中で書いた詩「Von guten Mächten wunderbar geborgen」(「善き力にわれ囲まれ」)の **ドイツ語原詩の直訳** をお示しします。
直訳なので、日本の賛美歌集(新生讃美歌73番など)の歌詞とは少し異なり、文学的な美しさよりも忠実さを優先しています。
ドイツ語原文と直訳
1連
Von guten Mächten wunderbar geborgen,
期待に満ちて、安心して
was kommen mag, es mag mit uns geschehen.
何が起ころうとも、それは私たちに起こるべきこと。
Gott ist mit uns am Abend und am Morgen
神は夕べにも朝にも、
und ganz gewiß an jedem neuen Tag.
そして確かにすべての新しい日々に共におられる。
---
2連
Noch will das alte unsre Herzen quälen,
古きものはなお、私たちの心を苦しめたいとし、
noch drückt uns böser Tage schwere Last.
悪しき日々の重荷は、なお私たちを押しつける。
Ach Herr, gib unsern aufgeschreckten Seelen
ああ主よ、驚きおののく私たちの魂にお与えください、
das Heil, für das du uns geschaffen hast.
あなたが私たちのために備えてくださった救いを。
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3連
Und reichst du uns den schweren Kelch, den bittern
そしてもし、あなたが私たちに苦い杯、重き杯を差し出されるなら、
des Leids, gefüllt bis an den höchsten Rand,
悲しみに満ち、縁までなみなみと注がれたその杯を、
so nehmen wir ihn dankbar ohne Zittern
私たちは震えず、感謝してそれを受け取りましょう、
aus deiner guten und geliebten Hand.
あなたの善く、愛に満ちた御手からのものとして。
---
4連
Doch willst du uns noch einmal Freude schenken
けれども、もし再び私たちに喜びをお与えになるなら、
an dieser Welt und ihrer Sonne Glanz,
この世とその太陽の輝きの中に、
dann woll’n wir des Vergangenen gedenken,
その時は私たちは過ぎ去ったものを思い起こし、
und dann gehört dir unser Leben ganz.
私たちの命をまったくあなたにささげましょう。
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5連
Laß warm und hell die Kerzen heute flammen,
どうか今日、ろうそくの火を暖かく明るく燃え立たせてください、
die du in unsre Dunkelheit gebracht.
あなたが私たちの闇に持ち込んでくださったその火を。
Führ, wenn es sein kann, wieder uns zusammen!
もし御心なら、再び私たちを一つに集めてください!
Wir wissen es, dein Licht scheint in der Nacht.
私たちは知っています。あなたの光は夜の中に輝くことを。
---
6連
Wenn sich die Stille nun tief um uns breitet,
今、深い静けさが私たちを取り巻くとき、
so laß uns hören jenen vollen Klang
その時、私たちに聞かせてください、あの満ちあふれる響きを、
der Welt, die unsichtbar sich um uns weitet,
目に見えず、私たちを取り囲む広がりを持つ世界の、
all deiner Kinder hohen Lobgesang.
あなたのすべての子らの高らかな賛美の歌声を。
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7連
Von guten Mächten wunderbar geborgen,
善き力に不思議に守られて、
erwarten wir getrost, was kommen mag.
私たちは確信をもって待ち望みます、何が来ようとも。
Gott ist mit uns am Abend und am Morgen
神は夕べにも朝にも、
und ganz gewiß an jedem neuen Tag.
そして確かにすべての新しい日々に共におられる。
* この詩は1944年12月、処刑の約4か月前に獄中で書かれ、家族・婚約者に宛てて送られたものです。
* 「苦い杯を感謝して受ける」(3連)は、明らかにゲッセマネの祈り(ルカ22:42)を意識しています。
* 最後の連は「神は朝も夕べも共におられる」という確信で結ばれ、絶望の中でも希望を失わない信仰告白となっています。

