
わたしは、あるクリスチャンからわたしの力ではどうすることもできない問題の相談を受けました。
そのことに対してわたしはどうしたらいいのかづっと考えつづけています。
そしてその方に励ましのメールを送ろとしている今、以下のメッセージを神様から教えらました・・・
その方にこのメッセージを送ると同時にすこしでも多くの方々に分かち合いたいと思いこのブログに書くことにしました。
わたしは自分のことでも自分でどうすることもできないことが多くあります。
ましてや、他のひとのことであったり、また違う人がそれに関わっていたりしていたらますますどうすることもできません。
まるで四方八方ふさがっているかのようです。
しかしわたしには解決の方法があります。絶対的な確かな解決の方法です。
それは・・・
「前にも後ろにも道がない。」
そんな夜があります。
心は凍りつき、祈りの言葉すら出てこない。
けれど聖書はこう告げます。
「あなたは私の前からも後ろからも私を囲み、御手を私の上に置かれました。」(詩篇139:5)
人の目には袋小路でも、神の側から見ると、そこは「御手の内側」です。
山々がエルサレムを囲むように、主は御民を今よりとこしえまで囲まれます(詩篇125:2)。
前を導き、後ろを守り、上には御手、下には永遠の御腕(イザヤ52:12、申命記33:27)。
だから、
困難が押し寄せても、
恐れる必要はありません。
問題の解決やその問題の答えを自分でも他の人でも導き出すことができないことに対して
わたしたちはどのようなことができるのでしょうか?
答えの種明かしを先にしてしまうと・・・
愛と恵みでわたしを愛して下さっている神様がおられること。
そして、その神様の約束を信じ
祈ることができるという素晴らしいクリスチャンの特権です。
だからもうすでに回答は与えられているのです。
そのことをただ信じ続けて祈るかどうかです。
下にも出てくるのですが、錨(いかり)をイエスキリストにおろすかどうか、これが全ての問題の回答なのです。
最初に種明かしをしてしまったのですが、そのことを詳しく解説していきます。
この記事の目次
1.“海”と“軍隊”に挟まれて—紅海の絶望(出エジプト14章)
イスラエルの民が紅海とエジプト軍の板ばさみになったとき、
人間の計算で可能な選択肢は「降伏」か「絶望」しかありませんでした。
しかし、神はモーセを通してこう言われました。
「恐れてはならない。しっかり立って、きょう、主があなたがたのために行われる救いを見なさい。」
「主があなたがたのために戦われる。」
彼らは逃げ道を見つけたのではありません。
神が道をつくられたのです。
風が吹き、海が裂け、乾いた地が現れました。
“道がない”と見えた場所が、神の道になりました。
あなたの人生の海も、主が命じれば、道になります。

2.獅子の穴の夜——ダニエルの静かな信仰(ダニエル6章)
陰謀と圧力のただ中で、ダニエルは日々の祈りをやめませんでした。
そして、王様の命令に背いた罪で獅子の穴へ。
“終わった”ように見えたその夜、神は御使いを遣わして獅子の口をふさがれたと記されています。
翌朝、ダニエルは生きていました。
彼は“状況をコントロールした”のではありません。
神に委ね続けたのです。
状況があなたを呑み込むようでも、
祈りをやめない者に、神は静かな勝利を与えられます。

3.嵐の海での宣言——パウロの嵐(使徒27章)
暴風の中、船は翻弄され、荷も道具も投げ捨てるしかない。
先の見えない漂流に、皆が生きる望みを失いました。
そのとき、パウロは言いました。
「勇気を出しなさい。私が属し、また仕えている神の御使いが、この夜、私のそばに立って言われた……神はあなたに同行している者をみな、あなたに与えられた。」
嵐はすぐにはおさまりませんでした。
しかし、約束は先に与えられ、その約束どおり、誰一人命を失いませんでした。
嵐の中で必要なのは、嵐の実況ではなく、神の約束の宣言です。

4.現代の証し—「安けさは川のごとく」の背後にある平安
19世紀シカゴの弁護士ホレイショ・スパフォードは、相次ぐ試練の末に大西洋で娘たちを失いました。
悲嘆の航海の途中、娘たちが沈んだ地点を通過するとき、彼の内に言いようのない平安が満ち、詩を書きました。
「It is well with my soul(わが魂は安し)。」
問題が消えたからではありません。
十字架と復活のキリストが、痛みのただ中で“魂の錨”になっておられたからです。
私たちの平安は、状況の晴れ間ではなく、イエスに錨を下ろすことから来ます。
5.「四方八方から苦しめられても」——壊れものの器に宿る力(Ⅱコリント4:7–9)
パウロはこう言います。
「私たちは四方から苦しめられても、窮しません。
途方に暮れても、行き詰まりません。
迫害されても、見捨てられず。
打ち倒されても、滅びません。」
ここにあるのは、“何も起きない”という保証ではありません。
“起きても終わらない”という神の保証です。
なぜなら、「このすばらしい力は神のものであって、私たちから出たものではない」からです(4:7)。
私たちは壊れやすい弱い愚かな器です。
しかし、中に宿るのは壊れない確かなるキリストのいのちです。
6.恐れない根拠——十字架と復活という“決定的事実”
恐れない勇気は、自己暗示では生まれません。
事実が必要です。
聖書が語る事実は、これです。
十字架
キリストは「私たちの罪のために死なれ」(Ⅰコリント15:3)。
あなたと神の間を隔てる罪に対し、身代わりの刑罰を受けられました(イザヤ53章の預言は、その意味を指し示します)。
復活
「**三日目によみがえられ**」(Ⅰコリント15:4)。
死の支配を打ち破り、**新しいいのち**の初穂となられました。
救いの約束
「御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つため」(ヨハネ3:16)。
「御子を信じる者はさばきに会うことがなく、死からいのちに移っている」(ヨハネ5:24)。
だから、私たちは言えます。
「恐れない。」
罪に対しては十字架、
死に対しては復活が、すでに勝利を宣言しているからです。
この福音を“自分のもの”として信じるとき、あなたの過去に赦し、現在に同伴、未来に希望が据えられます。
7.“四方八方”の現実に、信仰で応答する三つのステップ
① 宣言する。
詩篇139:5、125:2、申命記33:27、Ⅱコリント4:8–9を、声に出して読む。
事実に対する信仰の応答は、まず口から始まります。
「主が前を行き、主がしんがりとなり、御手が上に、御腕が下にある。」
毎朝の祈りを“宣言の祈り”にしてください。
② たゆまず祈る。
ダニエルは“祈りをやめない”ことを選びました。
短い祈りでかまいません。
「主よ、今、あなたに頼ります。あなたが道をつくってください。」
“獅子の夜”は長くても、夜明けは必ず来ます。
③ 約束に錨を下ろす。
パウロの船が錨を下ろして嵐の夜をやり過ごしたように、
あなたの魂の錨を、神の約束に下ろしてください(ヘブル6:19参照)。
感情ではなく、約束によりかかる。
それが信仰の姿勢です。
8.あなたの物語の“今”に語りかける言葉
「主はあなたを守る方。主はあなたの右の手をおおう影。」(詩篇121:5)
昼の灼熱も、夜の冷たさも、主の影が体温の距離であなたを覆います。
「主はあなたがたの前ぶれとなり、イスラエルの神はあなたがたのしんがりとなられる。」(イザヤ52:12)
見える前方も、見えない背後も、主の守備範囲。
あなたが見えていない領域を、主は見ておられます。
「永遠の神はあなたの住まいであり、下には永遠の御腕がある。」(申命記33:27)
足もとが崩れる時、落ち切る前に御腕が抱きとめる。
これが、神の約束です。
9.小さな現代のたとえ——“暗闇の非常灯”
夜、ビル全体が停電しても、「非常灯」は消えません。
非常灯は目立たず、ふだんは意識されません。
けれど、暗くなったとき、それだけが「道しるべ」になります。
キリストは、私たちの人生の非常灯。
明るい日には気づかれず、暗闇で唯一の光として働かれます。
あなたの“停電”の中で、非常灯はすでに点いています。
その光の向く方へ、一歩、また一歩と歩みましょう。
10.結び——恐れない理由は“私の強さ”ではなく“神の真実”
「私は弱い。だから怖い。」
正直な告白で十分です。
パウロは言いました。
「私が弱いときにこそ、私は強い。」(Ⅱコリント12章の主旨)
私たちの弱さの裂け目から、神の力がにじみ出るからです。
だから、宣言しましょう。
——たとえ四方から苦しめられても、私は行き詰まらない。
——たとえ途方に暮れても、私は見捨てられない。
——たとえ打ち倒されても、私は滅びない。
その根拠は、十字架と復活です。
キリストが私の罪を負って死なれ、
三日目によみがえられた決定的事実が、
私の今日を支え、明日をひらき、永遠を保証します(Ⅰコリント15:3–4、ヨハネ3:16、5:24)。
祈り
主よ。
前にも後ろにも道がないと感じる私を、あなたの御手の内側に置いてください。
主が前を行き、後ろを守り、上から御手を置き、下から御腕で支えてくださることを、
今日、信仰をもって宣言します。
十字架で私の罪を負い、復活によって新しいいのちを与えてくださった主イエス。
あなたに魂の錨を下ろします。
恐れよりも約束を選び、絶望よりも希望を選び、沈黙よりも賛美を選びます。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

