第3週4日目 主は“近づき助けて下さる”方。ぐらつく時こそ目をそらさない。(創世記33〜34章とマタイ14章)

今日の通読は、創世記33〜34章とマタイ14章です。
人生には、創世記33章のように和解の喜びもあれば、創世記34章の混乱の痛みもあります。さらにマタイ14章のように「足りない」「沈みそう」という不安も襲ってきます。

けれど聖書は、そういう「高い波」や「強い風」のある現実の中で、主が遠くから眺めているのではなく、近くで手を伸ばしてすぐに助けてくださる方であることを示しています。

この記事の目次

「遠くの神」ではなく「近くで手を伸ばす主」

大切なのは、私たちの気分が安定して落ち着いているかどうかより、私たちの目がどこにむいているかです。
問題が発生して気持ちがぐらついた時、私たちはつい神様から目をそらして、目先の解決や上辺をつくろってしまうことが多いです。

けれど今日の箇所は、「問題だけを見て主から目をそらすのではなく、主に目を向け続けるか、目をそらしたならすぐに目を主に戻すことを命じています。なぜなら、いつも主はすぐそばにいて支えつづけて、次の一歩へ導いてくださるからです。

創世記33章|和解へ導かれる主—涙の場面にも主の手がある

和解は偶然ではなく、主が備えた道

ヤコブは兄エサウとの再会を恐れていました。ところが実際に会うと、エサウは走り寄り、抱き、口づけし、共に泣きます。
これは「うまくいった」というだけの出来事ではありません。

ヤコブが祈り、備え、そして逃げずに近づいた結果、主が和解の扉を置いてくださった、と見ることができます。

ぐらつきやすい心を「主の導き」に戻す視点

和解の場面でも、ヤコブの心は慎重で、すぐに全部がバラ色になるわけではありませんでした。ここが現実的です。
信仰とは「一瞬で不安が消えること」ではなく、不安を抱えつつも主の導きにゆだね従う歩みです。

創世記34章|混乱の中でも物語は終わらない—主は次の歩みへ向かわせる

痛み・怒り・ねじれた行動の現実を“なかったこと”にしない聖書

創世記34章は、読むのがつらい章です。

人のこころに欺瞞が起こり、怒りが燃え上がり、ねじれた対応が事態をさらに悪くします。
でも神さまは、信仰者を良く見せようとして取り繕いません。なぜなら人は弱い情けない存在だからです。

「こういう章がある」こと自体が、私たちの現実に寄り添っているということです。

神は混乱のただ中で「次の一歩」を失わせない

ここで重要なのは、混乱があっても神の計画が終わらないことです。

人の罪や怒りが噴き出しても、主は物語を途中で投げ出さず、次の歩みへ向かわせます。
「もう終わりだ」と感じる局面でも、主は次の道を開いて導いてくださる方です。

今日の学びは、「主に向き直る」ことをすすめています。

混乱の中でも、「主よ、私はどうすればいいですか」と祈り、心を主の前に置き直す。そこから神様ご自身の解決への軌道修正が始まるのです。

マタイ14章①|「足りない」から始まる奇跡—五つのパンと二匹の魚

弟子の現実:「足りない」「無理だ」という正直な出発点

群衆を前に弟子たちは言います。「ここには五つのパンと二匹の魚しかありません。」
これが出発点です。弟子たちは“信仰者らしいセリフ”ではなく、現実の不足を口にしました。

主の導き:小さくても“差し出す”時、主が満たされる

イエスは言われます。「それを、ここに持って来なさい。」
主は、私たちの不足を責めるより、まず「今あるものをわたしにさしだしなさい」と導かれます。
小さな捧げものであっても、主の手に渡ることで、満たしへ変わっていくのです。

今日の自分の「足りない」は何でしょうか。

時間、体力、気力、愛、忍耐…いろいろあるでしょう。
その不足を隠さず、神様がその「足りないもの」「取るに足らないもの」を祝福して用いて下さることを確信して、今日できる一歩を差し出しましょう。

すると主は「足りない」を終点ではなく、恵みの出発点に変えてくださいます。

マタイ14章②|沈みかけても手が届く—ペテロと主の“すぐ”の助け

ぐらつく瞬間に必要なのは「主に目を向ける」こと

ペテロは水の上を歩きましたが、風を見て波を見て(イエスキリストから目をそらして)恐れ、沈みかけます。
この場面の鍵は、「沈みそうになった時(すぐに)、何を見たか」です。状況を見つめ続ける(波や風を見続ける)と沈みつづけます。けれど主に向き直ると主の助けの御手が目の前にあることに気づきます。

主は“すぐ”手を伸ばされる—責めるより支える

ペテロが叫ぶと、主はすぐに手を伸ばしてつかまえられます。
ここに福音の素晴らしさがあります。福音は、天から地に向けて立てられたはしごなのです。そのはしごをイエスキリストは神が人となって私たちのところまで来て下さり手を差しのべてくださっているのです。ですから、失敗を数えて責める方ではなく、沈む前に手を差しのべて助けてくださる方なのです。

日常でも、不安や恐れの波が来たら「(不安や恐れから目をそらして、イエスキリストに目を戻し)主よ、助けてください」と言うのです。

このようにいつも、問題や不安や恐れが襲ってきても、まずそれらから目をそらし十字架のイエスキリストに目をもどし、イエスキリストから目をそらしてはならないのです。

 

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