あなたは再臨を本当に信じていますか――マリヤの信仰に学ぶ「再臨の希望」

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あなたは再臨を本当に信じていますか――マリヤの信仰に学ぶ「再臨の希望」

大切なことはただひとつです・

ベタニアのマリヤは、イエス様の御言葉を一言も聞き漏らすまいと主の足もとに座り、その御言葉を信じて受け入れました。
そして、まだ起こっていない十字架葬り復活を前もって見つめるように三百デナリ以上もする高価な香油を惜しみなく主に注ぎました。
多くの人には理解されませんでしたが、イエス様はその信仰の行動を深く喜ばれ、「福音の語られるところでは、どこでもこの人のしたことも語られる」と言われました。
私たちにも、まだ起こっていない神の約束があります。それが主イエス・キリストの再臨です。私たちは本当に再臨を信じ、備えて生きているでしょうか。
このメッセージでは、マリヤの信仰に学びながら再臨の希望を現実のものとして生きる信仰の姿を共に見つめていきます。

マリヤは、なぜ主の足もとに座り続けたのでしょうか

ルカの福音書10章を見ると、マリヤはイエス様の足もとに座って、その御言葉を聞いていました。
一方で姉のマルタは、忙しくもてなしをしていました。
この場面を読むとき、私たちはつい「マルタはだめで、マリヤは良かった」と単純に考えてしまうことがあります。
けれども、そうではありません。マルタがしていたおもてなしも、大切なことでした。家に主をお迎えして、準備をし、もてなすことは、愛の表れでもあります。
マリヤも本当は、姉を手伝いたい気持ちがあったと思います。
忙しく動いている姉の姿を見ながら、何も感じなかったはずはありません。
それでもマリヤは、イエス様の足もとを離れませんでした。
なぜでしょうか。
それは、今この時、何よりも大切なのは主の御言葉を聞くことだと分かっていたからではないでしょうか。
食事の準備はあとでもできます。
家の仕事もあとでできます。
けれども、今、主が語っておられる御言葉は、今聞かなければならない。
マリヤはそう感じていたのだと思います。
私たちの毎日もよく似ています。
やることはたくさんあります。
忙しさに追われます。
気づけば一日が終わってしまうこともあります。
そして、そんな時に一番後回しになりやすいのが、実は一番大切なことだったりします。
祈ること。
御言葉を読むこと。
主の前に静まること。
礼拝を大切にすること。
「今日はいろいろあって無理でした」
「落ち着いたら祈ろう」
「時間ができたら聖書を読もう」
そうしているうちに、主の足もとに座る時間が、どんどん後ろへ押しやられてしまうことがあります。
しかし、信仰の出発点はいつもここです
主の足もとで御言葉を聞くこと
ローマ10章17節には、
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのことばによるのです」
とあります。
マリヤのすばらしい行動は、突然生まれたものではありませんでした。
主の足もとで御言葉を聞く、その積み重ねがあったからこそ生まれたのです。

マリヤは、なぜ高価な香油を惜しげもなく注いだのでしょうか

ヨハネの福音書12章には、マリヤが非常に高価な純粋のナルドの香油をイエス様に注いだことが記されています。
その価値は、三百デナリ以上とも言われています。
三百デナリというのは、当時の労働者のほぼ一年分の賃金に近いとも考えられます。
今の感覚で言えば、決して軽いものではありません。
大切な財産です。
簡単に使えるものではありません。
ですから、その場にいた人たちは「もったいない」と言いました。
「そんなことをするより、それを売って貧しい人たちに施した方がよいではないか」と不満を口にしたのです。
確かに、人の目にはそのように見えたでしょう。
今の私たちも、同じ場にいたら、似たようなことを思ったかもしれません。
けれどもマリヤには、その香油以上に尊いお方が見えていました。
それがイエス様です。
人は、自分が本当に価値があると思っているもののためには、惜しみません。
大切な家族のためなら、時間も使います。
必要だと思うことのためなら、お金も労力も使います。
「惜しい」「惜しくない」は、値段だけで決まるのではなく、その相手をどれほど大切に思っているかで決まるのです。
多くの人は香油の値段を見ました。
しかしマリヤは、主の価値を見ていました。
ここに信仰の目があります。
信仰とは、主がどれほど尊いお方かを知ることでもあります。
イエス様は、ただ立派な先生ではありません。
私たちの罪のために十字架へ向かわれる救い主です。
私たちを愛して、ご自分を与えてくださるお方です。
そうであるならば、その主の前に惜しむものがあってよいでしょうか。
マリヤは、「高いからやめよう」とは考えませんでした。
「このお方のためなら惜しくない」と思ったのです。
それはイエス様の愛への応答であり、同時に信仰でもありました。

イエス様は、なぜマリヤの行為を喜ばれたのでしょうか

ここで大切なのは、マリヤの行動が、ただ感情的な盛り上がりではなかったということです。
イエス様はそれまで何度も、ご自分が苦しみを受け、十字架にかかり、死んで葬られ、そして三日目によみがえることを語っておられました。
けれども弟子たちは、その意味をなかなか受け止めることができませんでした。
しかしマリヤは、主の御言葉を聞き、その言葉を心にとめていたのでしょう。
だからこそ、まだ起こっていない十字架と葬りと復活を、信仰によって受け止めることができたのです。
これは本当にすごいことです。
十字架はまだ起こっていません。
葬りもまだです。復活もまだです。
それなのにマリヤは、主が語られたゆえに、それを確かなこととして信仰で受け止めていました。
そして、その信仰が行動になって現れたのです。
それが香油注ぎでした
イエス様は、その行為を見て深く喜ばれました。
なぜなら、そこに御言葉を信じる信仰があったからです。
へブル11章6節には、
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」
とあります。
逆に言えば、信仰による行動は神様を喜ばせるのです。
私たちは時々、「もっと大きなことをしなければ主に喜ばれない」と思ってしまうことがあります。
もっと特別な働きが必要なのではないか。
もっと目立つ奉仕が必要なのではないか。
そう考えがちです。
けれども主が見ておられるのは、規模の大きさではなく、信仰です。
御言葉を聞き、それを信じて従うこと。
その一歩が、主を喜ばせるのです。

なぜ「福音と共に語られる」と言われたのでしょうか

イエス様はこう言われました。
「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のしたことも、この人の記念として語られます。」
これは非常に重い言葉です。
なぜ、ここまで言われたのでしょうか。
それは、この出来事が福音そのものと深く結びついているからです。
福音とは何でしょうか。
それは、イエス様が私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、葬られ、そして三日目によみがえられたという知らせです。
ただ「神は愛です」という抽象的な話ではなく、十字架と復活という具体的な出来事です。
マリヤの行為は、その福音の中心である主の死と葬りに向かってなされた、信仰の応答でした。
だからこそ、この出来事は福音と共に語られるのです。
言い換えるなら、福音を聞くとは、ただ情報を知ることではありません。
主のなさることを心で受けとめ、それに応答することです。
マリヤは、福音に対する応答の模範でした。
主の御言葉を聞き信じまだ見ていない出来事に対して、愛をもって応答しました。
その姿は、すべての時代のクリスチャンにとって大切な手本となっています。

マリヤだけができた「ただ一度の務め」がありました

イエス様は、マリヤのしたことについて、
「この人は、わたしの葬りのために、前もって油を塗ってくれたのです」
と言われました。
十字架の後、主のご遺体には十分な葬りの備えをする時間がありませんでした。
安息日が迫っていたからです。
女性たちは香料を用意して墓へ向かいましたが、その時には主はすでによみがえっておられました。
つまり、結果として、主の葬りのために前もって油を塗ることができたのはマリヤだけだったのです。
後にも先にも、この務めを果たしたのは彼女一人でした。
これは偶然ではありません。
主の御言葉を聞き、信じ、行動した人にだけ与えられた恵み深い務めでした。
神様の働きには「時」があります。
その時をつかむ人は、主の声をよく聞いている人です。
畑でも、種をまく時を逃せば収穫に影響します。
花でも、咲く時に水を与えなければ弱ってしまいます。
信仰も同じです。
主が語られる時に聞き、主が促される時に従う人が、神様の備えられた時をつかむのです。

このマリヤの信仰は、私たちに何を教えているのでしょうか

ここまで読むと、私たちはこう思うかもしれません。
「でも、マリヤは特別な人だったのではないでしょうか。私にはそんな信仰はありません」と。
けれども、主を喜ばせるのは特別な能力ではありません。
信仰です。
たとえば、赦しなさいと言われた時に赦すこと。
祈りなさいと言われた時に祈ること。
感謝しなさいと言われた時に感謝すること。
礼拝を大切にすること。
苦しい時にも御言葉を開くこと。
こうしたことは、一つひとつを見ると、小さなことに思えるかもしれません。
けれども、それが御言葉への信仰によってなされるなら、主は喜んでくださいます。
聖書には、まだ見えていない約束に応答した人たちがたくさん出てきます。
ノアは、まだ雨が降っていない時に箱舟を造りました
アブラハムは、行き先を知らないまま旅立ちました。
そしてマリヤは、まだ十字架が起こっていないのに、主に香油を注ぎました。
信仰の人はみな、まだ見ていない神の約束に応答して生きた人たちです。

私たちにとって、まだ起こっていない神の約束とは何でしょうか

それは、主イエス・キリストの再臨です。
イエス様はヨハネ14章3節で、
「わたしはまた来ます」
と言われました。
また使徒1章11節では、天使が、
「このイエスは、またおいでになる」
と語っています。
再臨は、聖書のはっきりとした約束です。
それなのに私たちは、どこかで「まだまだ先のこと」と思ってしまいやすいのではないでしょうか。
頭では信じていても、生活の中では遠くしてしまうことがあります。
ちょうど、台風情報を聞いて「来るらしい」と言いながら、窓も閉めず、何の備えもしない人のようです。
知っていることと、本当に信じていることは違います。
マリヤは、まだ起こっていない十字架を、御言葉のゆえに現実として受け止めました。
私たちも同じように、まだ起こっていない再臨を、主の御言葉のゆえに現実として受け止めるべきなのです。

あなたは再臨を本当に信じていますか

これは、知識を問う質問ではありません。
生き方を問う質問です。
もし本当に再臨を信じているなら
祈りは変わるはずです。
礼拝への向き合い方も変わるはずです。
罪を軽く扱うこともできなくなるはずです。
人との関わり方も変わってくるはずです。
なぜなら、私たちはやがて主の御前に立つからです。
けれども、再臨の備えとは、ただ怖がることではありません。
主を愛する者にとって再臨は恐ろしい知らせではなく、希望です。
愛する主にお会いする日だからです。
花婿を待つ花嫁のように、待ち望む日なのです。
ですから再臨信仰とは、空を見上げて時間を過ごすことではありません。
今日という一日を、主の前で目を覚まして生きることです。
御言葉を聞き、
祈り、
悔い改め、
愛し、
忠実に歩むことです。
「いつか主は来られる」と思うだけではなく、
「主は本当に来られる。その日を意識して、今日を生きよう」と心を整えることです。

マリヤのように、私たちも信じて行動する者となりたい

ベタニアのマリヤは、御言葉を聞きました。
信じました。
そして行動しました。
その信仰が、イエス様を喜ばせました。
私たちにも、まだ見ていない神の約束があります。
それが、主の再臨です。
では、私たちはどう生きるのでしょうか。
まず、マリヤのように主の足もとに座ることです。
忙しさに流されるのではなく、主の御言葉を第一にすることです。
次に、主を何よりも尊いお方として愛することです。
時間も、
祈りも、
従順も、
感謝も、惜しまず主にささげることです。
そして、再臨の希望を「遠い未来の話」とせず、「今日を生きる力」として受けとめることです。
主は来られます。
だから、今日も目を覚まして歩みます。
主は来られます。
だから、今日も悔い改めます。
主は来られます。
だから、今日も希望をもって生きます。

結び

あなたは再臨を本当に信じていますか。
もし本当に信じているなら、
今日の祈りは変わるはずです。
今日の礼拝は変わるはずです。
今日の悔い改めは変わるはずです。
今日の歩みは変わるはずです。
ベタニアのマリヤは、まだ見ていないことを、御言葉のゆえに信じました。
そして、その信仰を行動で表しました。
その姿は、今の私たちにも大切なことを教えています。
私たちも、マリヤのように主の足もとで御言葉を聞く者となりたいのです。
私たちも、マリヤのようにまだ見ていない約束を信じる者となりたいのです。
私たちも、マリヤのように主を喜ばせる信仰の行動をしたいのです。
主イエス様が再び来られるその日まで、
「主よ、あなたのお言葉を信じます。どうか、あなたを喜ばせる歩みをさせてください」
そのように祈りながら、再臨の希望を胸に、今日を大切に歩んでいきたいと思います。

参考聖書箇所

  • ルカ10章38~42節
  • ヨハネ12章1~8節
  • マタイ26章6~13節
  • マルコ14章3~9節
  • ヨハネ14章3節
  • 使徒1章11節
  • ローマ10章17節
  • へブル11章6節

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