【その➁】神様は本当に私を守ってくださるのか?イザヤ41章10節に学ぶ「神の守り」と「恐れるな」の本当の意味
続く後半では、
  • 義の右の手とは何か
  • 神様の守りとお守りの違い
  • なぜ神様はここまでして守ってくださるのか
  • 本当にどんな時も守ってくださるのか
  • 十字架が証明する神の愛
  • 結論と適用 を長文にはなりますが、明らかにさせて下さい。

    「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
    たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
    わたしはあなたを強め、
    あなたを助け、
    わたしの義の右の手で、
    あなたを守る。」
    (イザヤ41章10節)

この記事の目次

「義の右の手」とはどのような手なのか

神様は続けて、「わたしの義の右の手で、あなたを守る」と言われます。
ここで「右手」とは単なる右側の手ではありません。
聖書では右手は、
  • 権威
  • 勝利
  • 支配
を表します。
王が権力を行使する時の象徴でもありました。
つまり神様は、「わたしの全能の力によってあなたを支える」と言われているのです。
さらに「義の右の手」とあります。義とは正しさです。神様の正しさには間違いがありません。人間は時に判断を誤ります。助けようと思っても失敗します。しかし神様は決して失敗しません。
神様の右手は、絶対に間違わない完全な愛の手なのです。
ある人は幼い頃、川で溺れそうになった経験がありました。流れは速く、自分の力ではどうすることもできません。その時、父親が飛び込み、強い腕で抱きかかえて岸まで連れて行ったそうです。子どもは必死でした。しかし実際に命を救ったのは子どもの力ではなく父親の力でした。
私たちの救いも守りも同じです。神様の力が私たちを支えているのです。

神様の守りとお守りは何が違うのか

世の中にはさまざまなお守りがあります。交通安全のお守り。健康のお守り。合格祈願のお守り。
しかし聖書の神様の守りは、それらとは本質的に異なります。
お守りはです。しかし神様は生きておられる人格的なお方です。
お守りは何も語りません。何も考えません。何も愛しません。
しかし神様は私たちを知っておられます。名前を知り、涙を知り、苦しみを知り、祈りを聞いてくださいます。
神様は遠くから守るのではありません。「わたしはあなたとともにいる」
と言われます。
ここが決定的な違いです。守りとは物を持つことではありません。守ってくださるお方と共に歩むことなのです。

なぜ神様はそこまでして私たちを守ってくださるのか

ここで大切な疑問が生まれます。「なぜ神様はそこまでして私を守ってくださるのだろう。」
私たちは完璧ではありません。失敗します。罪も犯します。神様を悲しませることもあります。
それなのに神様は、「わたしはあなたとともにいる」と言われます。
その理由はただ一つです。神様が愛だからです。
ヨハネ第一4章8節には、
「神は愛です」
とあります。
神様は愛することをやめられないお方です。
ちょうど母親が病気の子どもを看病するようなものです。子どもが熱を出したから愛するのではありません。子どもだから愛するのです。
神様も同じです。私たちが立派だからではありません。神様の愛のゆえに守ってくださるのです。

十字架こそ神様の守りの最大の証拠

神様の愛が最もはっきり現れた場所があります。それがイエス様の十字架です。神様は私たちを愛するあまり、御子イエス・キリストをこの世に遣わされました。そして私たちの罪を背負わせました。
考えてみてください。もし神様が私たちをどうでもいい存在だと思っているなら、十字架は必要ありません。しかし神様はそうされませんでした。
ご自身の御子を与えるほどに愛されたのです。
ローマ8章32節には、
「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして御子とともに、すべてのものを恵んでくださらないことがありましょう。」
とあります。
十字架は、「わたしはあなたを愛している」という神様の永遠の宣言なのです。

神様は本当にどんな時も守ってくださるのか

ここで誤解してはいけないことがあります。
神様の守りとは、病気にならないことではありません。苦しみがなくなることでもありません。クリスチャンも病気になります。苦しみます。涙を流します。
しかし神様はその中で共にいてくださいます。
詩篇23篇でダビデは、「たとえ死の陰の谷を歩むことがあっても」
と言いました。谷を通らないとは言っていません。谷を通るのです。
しかし、「あなたが私とともにおられますから」と言いました。
神様の守りとは、谷がなくなることではなく、谷の中で共にいてくださることなのです。

私たちはどう応答すればよいのか

それでは私たちはどう生きればよいのでしょうか。
神様は、「恐れるな」と言われます。
ですから私たちは
恐れではなく約束を見るのです。
問題ではなく神様を見るのです。
自分の弱さではなく神様の力を見るのです。
そして毎日こう祈ればよいのです。「主よ、私は弱い者です。しかしあなたは強いお方です。
私は恐れます。しかしあなたは共にいてくださいます。今日もあなたを信頼して歩ませてください。」

終わりに

イザヤ41章10節は、神様から私たちへの愛の手紙です。
神様は、「恐れるな」と言われます。
なぜなら、「わたしはあなたとともにいる」からです。
神様は、「たじろぐな」と言われます。
なぜなら、「わたしがあなたの神だから」です。
神様は、「わたしはあなたを強め、助け、義の右の手で守る」と言われます。
私たちが神様を握っているのではありません。神様が私たちを握っていてくださるのです。だから安心してよいのです。だから恐れなくてよいのです。今日も主の御手の中で、「主よ、あなたを信頼します」
と告白しながら歩んでいきましょう。

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