
この記事の目次
心の屋根裏部屋から、王座へ ~イエス様の本当の居場所~
はじめに:宿屋に部屋がなかったイエス様
「そして初子を産み、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(ルカの福音書 2:7)
最初のクリスマス、救い主がこの世界に来られた時、ベツレヘムの宿屋には彼をお迎えするための部屋がありませんでした。人々は自分の用事や旅の疲れでいっぱいで、神の御子が誕生するという歴史の最も偉大な瞬間のために、場所を空ける余裕や気持ちがなかったのです。
ふと立ち止まって、現代を生きる私たちの心という「宿屋」を見つめてみましょう。私たちの心もまた、日々の忙しいスケジュール、自分自身の計画、尽きない悩み、そして様々な欲望で「満室」になっていないでしょうか。救い主として十字架にかかり、よみがえられたイエス様を信じていると言いながらも、実際にはイエス様のために良い部屋を用意せず、心の片隅にある「屋根裏部屋」のような場所にイエス様を追いやっている現実がないか、共に探ってみたいと思います。
1. 現状の認識:イエス様を「心の屋根裏部屋」に置いていないか
ロバート・ボイド・マンガーという牧師が書いた『私の心─キリストの住まい』※1という有名な小冊子があります。その中で、私たちの心を一つの「家」に例え、イエス様をその家に招待する様子が描かれています。私たちは書斎(思考)や食堂(欲求)、居間(交わり)をイエス様に見せますが、見せたくないガラクタや罪がいっぱい隠されているクローゼットや屋根裏部屋には、決してイエス様を入れようとしません。あるいは逆に、普段は自分だけで家を独占し、イエス様を屋根裏部屋に押し込めてしまっていないか警報を鳴らしています。
私たちは無意識のうちに、イエス様を生活の中心ではなく、自分の都合の良い時にだけ呼び出す存在にしてしまう弱さを持っています。自分が困った時、計画が行き詰まった時、病気になった時にだけ、「イエス様、助けてください!」と屋根裏部屋から引っ張り出してくるのです。
ヘタをすると私たちは、「祈り」という素晴らしい神様との交わりの手段を巧みに利用し、あたかもイエス様を自分の願いを叶えるための「アラジンの魔法のランプの精」や、自分の命令で動く「部下」のように扱ってしまいます。しかし、絶対にイエス様は私たちに利用される「助っ人」ではありません。
2. 立場の逆転:人生の「主(主人)」は誰か?
なぜ、そのようなことが起きてしまうのでしょうか。それは、私たちが自分自身を人生の「主(主人)」の座、すなわち心の「王座」に置いているからです。
私たちが王座に座り、自分で人生のハンドルを握っている時、心の中には常に不安や恐れ、不満が渦巻きます。なぜなら、私たちはすべてを知っているわけでも、すべてをコントロールできるわけでもないからです。
神様のあるべき立場とは、万物を統べ治める創造主であり、私たちの人生の絶対的な主権を持つ「王」です。そして、
私たちのあるべき立場は、恵みによって救われた被造物であり、その王の深い愛に包まれながら、喜んで従っていく「僕(しもべ)」です。
「私が主人で、イエス様が従者」という主客が逆転してしまった状態を率直に認め、その傲慢さを悔い改めること。それが、正しい信仰生活を取り戻すための第一歩です。
3. トマスに学ぶ正しい姿勢:「わが主、わが神よ」
では、あるべき正しい姿勢とはどのようなものでしょうか。復活のイエス様に出会った弟子のトマスの姿に、その答えがあります。
トマスは当初、イエス様の復活を信じず、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と頑なになっていました。しかし、復活のイエス様がご自身を現し、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と語りかけられた時、トマスは完全に打ち砕かれました。
「トマスは答えてイエスに言った。『私の主。私の神。』」(ヨハネの福音書 20:28)
この時、トマスは間違いなくその場にひざまずき、畏れと圧倒的な愛に包まれながら、イエス様を見上げていたはずです。高ぶった自分を引き降ろし、ひざまずいて主を見上げる時、神様の偉大さと自分の小ささに気づくことができます。「主」と呼ぶことは、単なる敬称ではありません。「私のすべてはあなたのものです。あなたが私の人生の絶対的な所有者です」という、主権の全面的な明け渡しを意味しているのです。
4. 実践:心の「王座」をイエス様に明け渡す3つのステップ
私たちが日常の中で、トマスのようにイエス様を「わが主」と見上げ、心の王座をお譲りするために、具体的な3つのステップを踏み出しましょう。
ステップ1:心の扉を内側から開ける
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のもとにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(ヨハネの黙示録 3:20)
イエス様は決してドアをこじ開けて入ってくることはなさいません。私たちが自ら、自分が主人であるという自己中心の鍵を内側から開け、「どうか私の心の王座にお座りください」と招き入れるのを待っておられます。
ステップ2:すべての部屋の鍵を渡す
日曜日の礼拝の時だけ、あるいは自分の見栄えの良い部分だけをイエス様に明け渡すのではいけません。仕事の部屋、家庭の部屋、趣味の部屋、人間関係の部屋、そして経済の部屋。さらには、見せたくないドロドロとした感情が渦巻く屋根裏部屋でさえも、すべての鍵(所有権)をイエス様に束ねてお渡ししましょう。主はそれらを責めるためではなく、ゆだねてお渡しすると受け取って新しくするために導いてくださいます。
ステップ3:日常の中で「主よ」と問う
日々の生活の中で、自分の都合や感情が優先されそうな瞬間に、一度立ち止まる習慣をつけましょう。「主よ、あなたはどうお望みですか、どうすれば喜ばれますか」「主よ、あなたならどうされますか」。自分の計画を通すための祈りから、ゲツセマネの園でのイエス様のように「私の願いではなく、みこころが成りますように」と主権を委ねる祈りへと変えていきましょう。
おわりに:真の平安は、主権を委ねた時に訪れる
私たちは、自分で自分の人生をコントロールすることこそが「自由」だと錯覚しがちです。しかし、実際にはそれは重荷であり、私たちを自己中心の奴隷にしてしまいます。
真の自由と圧倒的な平安は、愛に満ちたイエス様に人生の王座を明け渡し、喜んでその統治に服従した時にのみ訪れます。
イエス様は、心の隅のホコリをかぶった屋根裏部屋にいるべきお方ではありません。今、心の中心にある王座から自ら降りましょう。そして、トマスと共にひざまずき、「わが主、わが神」と見上げて、イエス様をあなたの人生の真の中心にお迎えしようではありませんか。
※1ロバート・ボイド・マンガー(Robert Boyd Munger)牧師著
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- 書斎(知性): 私たちの思考や読書、興味の中心。疑いや誤った考えを捨て、主の教えと言葉で満たす場所。
- 食堂(欲望と食欲): 私たちの渇きや願望、欲望。世のものではなく、神の義を求める場所。
- 居間(交わり): 休息し、語り合う場所。毎日キリストと共に時間を過ごし、み言葉に耳を傾ける親密なひととき。
- 作業場(才能と能力): 私たちの技術や仕事。自分の力だけでなく、主の力を借りて働く場所。
- 娯楽室(レジャー): 楽しむ時間や友人関係。キリストと共に楽しむことのできる健全な選択。
- 物置(隠し事): 人に見せたくない罪や恥。キリストに鍵を渡し、全てをゆだねる場所。
- 主権の委ね: 小冊子のクライマックスとして、主人公は家の鍵(自分の人生の主導権)を完全にキリストに明け渡します。

