【聖書通読 第31週3日目】士師記19章・ピリピ2章

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【聖書通読 第31週3日目】士師記19章・ピリピ2章

【旧約聖書】士師記 19章 —— 神という「光」を失った社会の底なしの暗闇

士師記19章には、聖書全体を通しても最も痛ましく、目を覆いたくなるような悲惨な出来事が記されています。一人のレビ人(本来なら神様に仕え、人々の模範となるべき立場の人)が、自分のそばめを連れて旅をしていました。彼らがギブアという町で一晩を過ごそうとした時、その町の暴漢たちに家を囲まれてしまいます。

その絶体絶命のピンチの中で、このレビ人はどうしたでしょうか。あろうことか、自分自身の命を守るために、最もか弱い存在であるそばめを暴漢たちの前に差し出し、身代わりに犠牲にしてしまったのです。

これは単なる残酷な昔話ではありません。「神様」という人生の絶対的な光を見失い、「自分の利益や保身」だけを基準にして生きるようになった人間が、どこまで堕落し、残酷になれるかを示す強烈な警告です。自分の都合やプライドのために、平気で他者を踏みつけにする。士師記の終盤は、人間の罪の底なしの暗闇を容赦なく描き出しています。

【新約聖書】ピリピ人への手紙 2章 —— 最も低い場所へ降りてこられた王

旧約聖書の身の毛もよだつような自己中心的な暗闇から一転して、ピリピ人への手紙2章には、人類を照らす最も美しく、最も温かい「キリストの愛の姿」が描かれています。

ここで、18世紀に実在した二人の若きモラビア派の宣教師の、ある有名なエピソードをご紹介します。

彼らは、西インド諸島で過酷な労働を強いられている何千人もの黒人奴隷たちに、どうしてもイエス・キリストの愛(福音)を伝えたいと切に願いました。しかし、奴隷の所有者は、外部の人間が彼らに近づくことを絶対に許しませんでした。

そこで、二人の若者は信じられない決断を下します。自らの自由を売り払い、自ら「奴隷」となってその農園に身売りしたのです。鎖につながれ、ムチ打たれながら共に泥まみれになって働く中で、彼らは奴隷たちに神の愛を語りました。自分たちと同じ苦しみを背負って、一番低いところまで降りてきてくれた二人の姿を通して、多くの人々がその愛に涙し、救いを受け入れました。

パウロはピリピ2章で、キリストがまさにこの若者たちと同じ、いやそれ以上のことをしてくださったのだと語ります。

「キリストは神の御姿である方なのに……ご自分を空しくして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」

天の最も高い王座におられた神様ご自身が、きらびやかな衣を脱ぎ捨てて、私たちの罪と痛みが渦巻くこの泥まみれの地上に、身分を一番下まで下げて降りてきてくださったのです。

今日の神様からの奨め —— 日常の小さな場面で「キリストの心」を着る

士師記の「自分を守るために他者を犠牲にする姿」と、ピリピ書の「他者を救うために自分を犠牲にするキリストの姿」。この対照的な二つの姿は、私たちに大切な問いを投げかけています。

私たちはクリスチャンとして、家庭や職場、あるいは教会という共同体の中で日々を過ごしています。しかし、人間関係の中で意見の食い違いが生じた時、「私のほうが正しい」「なぜ分かってくれないのか」と、無意識のうちに自分のプライドを守ろうとしてしまうことがあります。

今日、神様は私たちにこう語りかけておられます。

「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。……キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。」(ピリピ2:3,5 / 新改訳2017)

「キリストの心を抱く」とは、歴史に名を残すような大事業を成し遂げることではありません。

今日、家族とのちょっとした言い争いの中で、最後に自分が「正しい言葉で打ち負かす」権利をそっと手放してみること。自分の正しさを強く主張するよりも、相手の弱さや不器用さにそっと寄り添うために、自分のプライドを一段だけ「下げる」こと。

あなたが、その小さなへりくだりを選択する時、あなたの内側からキリストの美しい光が輝き出します。自分の力だけでへりくだることは難しくても、すでにあなたの中に住んでおられる聖霊様が、必ずその愛の力を与えてくださいます。

今日一日、あなたの心にキリストの優しさと謙遜さが満ちあふれる、豊かな歩みとなりますようにお祈りしています。

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