十字架でイエスキリストが語られた7つの言葉(極限の中でなお語られた愛の言葉)

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十字架でイエスキリストが語られた7つの言葉(極限の中でなお語られた愛の言葉)

【十字架上の7つの言葉それぞれの詳しい解説

十字架上の7つの言葉は、4つの福音書に分けて記されています。
それらを順に見ていくと、主イエスがどのようなお方として十字架にかかられたのかが、はっきりと見えてきます。

1.「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです」ルカ23:34

これは十字架の上で最初に語られた言葉の一つです。
人々はイエス様をののしり、兵士たちはくじを引いてその衣を分け、宗教指導者たちはあざけっていました。
しかしそのただ中で、主は怒りの言葉ではなく、赦しの祈りをささげられました。
ここに、主イエスの驚くべき愛があります。
普通なら、自分を傷つけた相手に対して「どうしてこんなことをするのか」と言いたくなります。
けれども主は、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。
しかも主は、人間の罪の深さを「彼らは何をしているのか、自分でわからないのです」と言い表されました。
人は自分がどれほど神に逆らっているのか、本当にはわかっていません。
罪とは、ただ悪い行いをすることだけではなく、神の御子を退けてしまうほど心が暗くなっている状態です。
それでも主は赦しを求めてくださった。
ここに福音の出発点があります。
救いは、私たちが神を求めたから始まったのではなく、主がまず赦しを祈ってくださったところから始まったのです。

2.「よく言っておく。あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいる」ルカ23:43

イエス様の両側には二人の犯罪人が十字架につけられていました。
一人はイエス様をののしりました。
しかしもう一人は、自分の罪を認め、イエス様に向かって言いました。
「イエスさま。あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」
この人は、自分には何の功績もないことを知っていました。
いまさら善行を積むこともできません。
十字架にかけられたまま、ただ主を見上げることしかできませんでした。
しかし、その人に主ははっきりと言われました。
「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいる」
ここに、救いの本質があります。
救いは、人生を立て直してから受けるものではありません。
完全にきよくなってから与えられるものでもありません。
ただ主を信じてより頼む者に、主が与えてくださる恵みです。
この犯罪人は、教会で長年奉仕したわけでもありません。
立派な実績があったわけでもありません。
ただ、自分は罪人であり、イエス様だけが救い主であると認めました。
その時、救いの約束が与えられたのです。
ですから、私たちも希望を失う必要はありません。
「もう遅い」「自分はだめだ」と思う人にこそ、十字架の主は語られます。
信じて主を見上げる者を、主は決して退けられません。

3.「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」「ご覧なさい。あなたの母です」ヨハネ19:26-27

十字架の苦しみの中で、主イエスはご自分の母マリアを見つめ、愛する弟子ヨハネに託されました。
これは一見すると、家族への思いやりの場面のように見えます。
もちろんその通りです。
主は苦しみの中にあっても、母をなお深く心にかけておられました。
しかしそれだけではありません。
ここには、主が十字架によって新しい神の家族を形づくられることも表れています。
十字架のもとに集められた者たちは、ただの他人ではなく、主にあって結ばれた家族となるのです。
イエス様は最後まで愛のお方です。
ご自分の痛みで精いっぱいになってもおかしくないのに、人を顧みておられる。
主の愛は、自分の苦しみの中でもなお他者を見つめる愛です。
私たちは苦しくなると、視野が狭くなり、自分のことでいっぱいになります。
しかし十字架の主は、その中でもなお愛しておられます。
この言葉は、主の愛は最後まで尽きないことを示しています。

4.「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」マタイ27:46、マルコ15:34

この言葉は、十字架上の7つの言葉の中でも最も重く、深い言葉です。
これは詩篇22篇1節の言葉でもあります。
イエス様は、ただ苦しいから叫ばれたのではありません。
この叫びの中に、罪を負う者としての深い苦しみが表されています。
もちろん、父なる神と御子イエスとの本質的な結びつきが断ち切られたわけではありません。
しかし主は、私たちの罪を背負う者として、神にさばかれる側に立たれました。
本来、神に見捨てられるべきは私たちです。
罪の結果として神から遠く離れるべきは、私たちです。
なのに、その場所に主が立ってくださったのです。
この叫びは、十字架が単なる殉教ではないことを示しています。
主はただ立派に死なれたのではありません。
私たちの罪の身代わりとして、神の前で計り知れない苦しみを引き受けられたのです。
だからこそ、私たちは見捨てられずにすむのです。
主が見捨てられた者の場所に立たれたから、私たちは神の子として迎えられるのです。

5.「わたしは渇く」聖書箇所:ヨハネ19:28

この言葉は短いですが、とても大切です。
まずこれは、イエス様が本当に人となってくださったことを示します。
主は見せかけの肉体を持っていたのではありません。
本当に疲れ、本当に痛み、本当に渇きを覚えられました。
十字架は激しい出血と苦痛の刑です。
主はその現実の中で「わたしは渇く」と言われました。
ここに、まことの神であると同時に、まことの人である救い主のお姿があります。
また、この言葉は聖書の成就とも結びついています。
主は苦しみの中にあっても、神のご計画のまっただ中を歩んでおられました。
偶然に十字架にかかったのではなく、父の御心に従いきっておられたのです。
私たちが渇きや苦しみを覚える時、主はそれを知らない方ではありません。
主は高い天から遠く眺める神ではなく、痛みを身をもって知ってくださった救い主です。

6.「成し遂げられた」聖書箇所:ヨハネ19:30

これは勝利の宣言です。
一見すると十字架は敗北に見えます。
弟子たちは散り、主は血を流し、ついに息を引き取られました。
しかし主はその時、「終わった」と力尽きて言われたのではありません。
「成し遂げられた」と宣言されたのです。
何が成し遂げられたのでしょうか。
それは、父なる神の救いのご計画です。
罪のための代価が支払われ、あがないが完了し、救いの道が開かれたのです。
ここには大きな慰めがあります。
救いは未完成ではありません。
私たちが何かを付け足して完成させるものではありません。
イエス様が完全に成し遂げてくださったのです。
ですから、救いの土台は自分の熱心さではありません。
昨日は信仰が強かった、今日は弱い、だから救いが揺らぐ、というものではありません。
土台はただ一つ、十字架で成し遂げられた主の御業です。

7.「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」聖書箇所:ルカ23:46

これは十字架上の最後の言葉です。
主は最後まで父なる神を「父よ」と呼び、ご自分の霊をその御手にゆだねられました。
どれほどの苦しみを通っても、主は父への信頼を捨てられませんでした。
ここに、完全な従順があります。
アダムが神に逆らったのに対し、キリストは死に至るまで従われました。
しかもそれは、しぶしぶではなく、信頼の中での従順です。
この言葉は、主の死が絶望ではないことを示します。
十字架は悲劇で終わりません。
父なる神にゆだねられた死は、復活へとつながる希望の死です。
私たちもまた、自分の人生を主にゆだねることへ招かれています。
生きる時も、苦しむ時も、最期の時も、
「父よ、あなたにゆだねます」と言えるのは、十字架の主が先にその道を通ってくださったからです。

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