
【聖書通読第8週1日目】神に近づく道と、主に従う道(レビ記1章・マルコ8章)
レビ記1章(全焼のささげ物)
解説
レビ記1章は、幕屋が建てられたあと、神様がモーセを通してイスラエルの民に「どのように神に近づくか」を教えられる最初の章です。ここでは「全焼のささげ物」が中心に語られます。牛、羊、やぎ、あるいは山鳩や家鳩をささげることができ、経済的な状況に応じて選べるようになっています。これは、神様が一部の人だけでなく、すべての人に近づく道を備えておられることを示しています。
全焼のささげ物は、ささげ物全体を祭壇で焼いて神様にささげるものでした。自分の手をその動物の頭に置く行為は、自分自身を神様の前に差し出すこと、また罪ある者が神様のあわれみによって受け入れられることを表しています。血が流されること、火で焼かれることは、罪の重さと、聖なる神様に近づくために代価が必要であることを教えます。
同時に、この章は単なる儀式の説明ではありません。後に来られるイエス・キリストの十字架を指し示す「影」として読むことができます。完全ないけにえとして主ご自身がささげられたことで、私たちは神様に近づく道を与えられました。レビ記1章は、「神に近づく道は人間が作るのではなく、神様が備えてくださる」という福音の土台を静かに語っている章です。
神様が望むこと
この章を通して神様が望んでおられるのは、まず「聖さを軽く見ないこと」です。神様は愛のお方ですが、同時に聖なるお方です。ですから、神様に近づくことを自分流で済ませるのではなく、神様の示された道に従って近づくことが求められます。礼拝は気分だけではなく、神様への敬意と従順を伴うものです。
また神様は、私たちの「心からの献げもの」を望んでおられます。全焼のささげ物は、全部を神様にささげる礼拝です。今日の私たちは動物をささげることはしませんが、時間、思い、生活、計画を神様に明け渡すことができます。神様は、形だけの宗教的行動よりも、「主よ、私はあなたのものです」と向き直る心を喜ばれます。
さらに、神様は「近づいて来なさい」と招いておられます。罪の自覚があると、人は神様から離れたくなります。しかしレビ記1章は、罪人を締め出す章ではなく、神様が近づく道を開いてくださる章です。ですから今日も、恐れや遠慮のままではなく、主が備えてくださった恵みの道を通って、礼拝と祈りの場に戻ることが神様の願いです。
マルコ8章
解説
マルコ8章には、主イエスの力と、弟子たちの鈍さ、そして弟子道の核心がまとめて描かれています。前半では、四千人の給食の奇跡が起こります。主は人々の空腹をあわれみ、少ないパンを用いて満たされました。ここには、主が人の必要を知っておられること、そして乏しさの中でも十分に満たすことのできるお方であることが示されています。
しかしその直後、パリサイ人たちはしるしを求め、弟子たちもパンのことで思い悩みます。すでに奇跡を見ているのに、主の力と心を十分に理解していないのです。イエスは彼らに「まだ分からないのですか」と問いかけられます。これは責める言葉というより、見える問題に心を奪われている弟子たちを、信仰の目へと引き上げる言葉です。
後半では、ベツサイダの盲人の癒やしが語られます。主は段階的に癒やされました。これは、弟子たちの理解も一気に完成するのではなく、少しずつ開かれていくことを思わせます。そして中心場面として、ペテロが「あなたはキリストです」と告白します。ところが、十字架の予告を聞くとペテロはつまずきます。栄光のキリストは受け入れられても、苦しむ救い主は受け入れにくかったのです。
そこで主イエスは、弟子であるとはどういうことかを明確に語られます。「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」マルコ8章は、恵みを受けるだけで終わらず、主に従う生き方へと招く章です。
神様が望むこと
この章で神様が望んでおられる
第一のことは、「見える不足より、主ご自身を見ること」です。
弟子たちはパンが足りないことに心を奪われましたが、主はすでに何度も満たしてくださったお方でした。私たちも同じように、現実の不足や不安だけを見てしまいます。神様は、問題を否定するのではなく、その問題の中で「主がどなたであるか」を思い出すことを望んでおられます。
第二に神様は、「正しい告白だけでなく、従う歩み」を望んでおられます。
ペテロはすばらしい告白をしましたが、十字架の道を受け入れるには時間が必要でした。私たちも口で「主を信じます」と言いながら、自分の計画や期待と違う道になると戸惑います。神様は、理解しきれない時でも主の言葉に従って一歩を踏み出すことを願っておられます。
第三に神様は、「自分中心から主中心へ」向きを変えることを望んでおられます。
自分を捨てるとは、自分を嫌うことではなく、自分を人生の主人の座から降ろし、主を主として迎えることです。自分の十字架を負うとは、苦しみを美化することではなく、主に従うために必要な代価を受け入れることです。マルコ8章は、救われた者がどのように生きるかを問いかける章です。神様は、私たちが主を「助けてくれる方」としてだけでなく、「従うべき主」として信頼することを望んでおられます。
